現代人の法話 
〜 私たちの生き方を示そう 〜

 バブルの崩壊以来、すさんだ世相を反映してか、ここのところ急激に凶悪犯罪が頻発し、家庭の崩壊や教育の頽廃が声高く叫ばれています。が、世の指導者たちがいくら抜本的な社会改革や道徳心の高揚を訴えてもあまり効果が上がりそうにありません。というのは、社会構造や制度を改革しても、そこに生きる人間の精神を改革しないかぎり、付け焼き刃で終わってしまうことが目に見えているからです。その原因には、戦争の後遺症や科学技術の急激な発達や高度経済成長などが挙げられましょうが、何といっても明治維新以来に政教分離政策によって、精神の骨幹を培う宗教的情操までも排除されたことにあると思います。
 こうした風潮に影響されてか、戦後の私たちは宗教的情操抜きの近代的知識や技術を優先し、家庭を犠牲にしても金権体質の経済至上主義にドップリ浸かって、確かに物質的生活は便利かつ快適になりましたが、肝心の自分の生きざまや人生観を子弟や周囲の人たちに伝えることを怠って来たようです。否、伝えたくてもそうしたものを持ち合わせることに躊躇し、伝える自信や使命感も失ってしまったと言ったほうが適切かもしれません。確かに今日では、マスメディアの発達により、面白おかしい情報は氾濫して選択に困るほどですが、それも一方的に受け取るのみで、翻弄されつつあります。その反面、自らの信念を子弟や周囲の人に伝える努力を怠り、お互いが疑心暗鬼の孤立状態にあるのが現状のようです。これではお互いの意思の疎通がままならず、親子や師弟間の断絶や地域社会の崩壊が早まるのは当然でしょう。日本人は、お互いが胸襟を開いて自らの信念を語り合い、相手とジックリ語り合う喜びを、どこかに忘れてしまったのでしようか。
 大人自身が子弟や周囲の人に自分が考える正、不正の価値基準をはっきり伝え、自らその信念に基づいて率先実行することは、東西古今、いずれの国でもして来ていることです。それができないのであれば人間としての資格がないというべきでしょう。もし、できないのであれば、できない理由をお互い語り合ったらいかがでしよう。
 このように孤立状態にある日本人の閉塞的状況に慨嘆し、私は及ばずながら結婚以来、米国から帰国して過去三十数年にわたり、自分の子弟に対しては、ちょうど歌舞伎の連獅子のように、側に寄り添って切磋琢磨することに努め、周囲の人に対しては、仏語の「賓主互換」(お互いが相手を立てる)の精神で接することに努め、関係知己に対しては、月報や出版物などを通じて自分の信条や保持する情報の開示に努めて来ました。たとえそれが一人よがりの一方通行であろうとも、とかく閉鎖的、孤立的になりがちなお互い同士の意思の疎通や情報交換の一助になればと、ほのかな期待を寄せて来たからです。



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