現代人の法話 
〜 失敗と過失から学ぶ 〜

 私たちは、日頃、生活のあらゆる面でいつも順風満帆ということはありえず、ときには失敗や過ちを犯すことがあります。そんなときにはただ痛い目に遇ったとベソをかき、後悔して一日も早く忘れ去ろうとしますが、そうすることよりも、原因を究明して、そうしたことを二度と繰り返すまいと肝に命じることが大切です。また、他人の失敗や過失を見聞きしたときには、それらを他人事とせず、わが身に照らし合わせて「自分ならそうしたことをすまい」と心誓い、あらゆる防止策を講ずることが必要です。仏教ではこうした考えを「苦集滅道」の『四諦』といって、私たちの人生には自分の思いが叶わないことを「苦」ととらえ、失敗や過失から生まれがちな「苦」に出合ったときには、その原因を追求し、それを除去してはじめて「苦」を超克できる道が開けると説いています。
 そこで痛い目に遇った人にとって、実際に役立つのは他人の成功談よりもむしろ失敗談です。とかく人は自分の失敗や過ちを隠したがるものですが、そうしたことに目を背けているかぎり、それから立ち直り、より大きな成長は望めそうにありません。それは個人でも組織体でも同じことで、たとえ被害が少なくても、また大事件に発展して被害が周囲に広がる場合でも、そうした事実を隠蔽して改善策を怠ると、被害は拡大の一途を辿り、気づいたときには取り返しのつかない打撃を社会全体に与えることになります。
 たとえば、転んだとか受験や仕事に失敗したとかの個人的過失や、最近頻発している医療ミスや食中毒事件や原発事故や電車の脱線事故などのような組織的過失は、かならず不注意や無知、手順の不順守、誤判断、調査不足、制約条件の変化、企画設計不良、価値観不良、組織運営不良などの複合的原因で起きた場合が多く、それらを当事者が知ってか知らずか見逃し、改善策を先送りした結果、大抵は起こるべくして起こったと考えられます。もちろん、いくらそうした失敗や過失の防止策を事前に講じたとしても不可抗力の場合もありますが、大抵は人為的過失が顕在化したものです。
 昔から「失敗は成功のもと」と言われるように、私たちにとって大切なことは、自分の失敗や過失に対して誤魔化したり言い訳することなく、また他人の失敗や過失は聞きもらさずに原因を熟知し、二度と繰り返さないようお互いが改善策を講ずることです。そうしてはじめて失敗や過失をバネに、それ以上の大事に至ることを防止することができ、更なる社会の進歩発展に資することができるのだと思います。
 今日の社会は、とかく仕事の効率化をはかるために機構を機械化、合理化し、組織が肥大化、分業化して、その成員がその成立発展過程を体験せず、全体を見通すことができなくなりつつあります。個人的失敗や過失ならいざ知らず、そこで発生する事故や事件が組織全体に波及した場合、臨機応変の処置がとれず、危機管理に不慣なことです。しかし、いかなる人間や組織や機構でも、それらは生まれて以来、萌芽、発展、成熟、衰退の段階を経て消滅乃至再生を繰り返しているもので、その間に、絶えず補修、改善、接ぎ木を怠ると、いつしか構造疲労を起こして内部崩壊することは自然の埋です。
 昔から「売り家と唐様で書く三代目」という諺があるように、初代の苦労は次世代までは伝わりますが、三代目になると先々代の苦労は伝わらずマンネリ化し、その残した遺産を食いつぶして破綻の憂き目に遇うということです。したがってひとつの生命体を維持発展させるためには、後継者は常に初代の苦労を忘れず追体験し、それに接ぎ木する形で新陳代謝をうながし、時代相応の新気軸を打ち出す必要があります。最近、世間を騷がせている金融界の自己破産や官公庁の汚職事件などはその構造疲労の好例で、破綻が目に見えていながら当事者は「いずれどうにかなるだろう」とタカをくくり、密室の中で問題を先送りし、放置して来たツケが回って来たのだといえましょう。こうした失敗を一部の人間の責任に転嫁して、トカゲの尻尾切りのように一過的な失敗に終わらせないためにも、はたして当事者はこうした失敗を契機として、抜本的な機構の改革に真剣に取り組んでいるかどうかを、国民はよく注視すべき必要があろうかと思います。
 最近では、IT革命により情報公開の声が高まっていますが、わが国では公私を問わず、依然として閉鎖的な社会で推移しているようです。その証拠に、私たちの知りたい、あるいは知るべき情報を役所や企業体や個人がどれ程公開しているのでしょうか。ほんとうに民主主義が実現されているならぱ、知りたい人が知りたいときに、知るべき情報が分かりやすく得られることが肝要で、そうすれば周囲の人や社会への余計な憶測や疑念が湧かず、危険や危機を予知することも可能です。それができないということは、おそらく閉鎖社会のうま味を味わう既得権者や、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という諺があるように、実態が知られるのを恐れている人が阻止しているからなのでしょう。人の情報や失敗は知りたがっているのに、自分の情報や失敗を他にもらさないのは不公平です。こうした人がいるかぎり、わが国にいつまでたっても閉鎖社会で終わり、国際社会からも立ち遅れて孤立すること必定です。これからの社会は、お互いが自分の失敗や過失を隠さずに情報化して周囲に伝えると共に、誰もがそうした失敗や過失を犯さないよう、事前に予知する体験をすべきではないでしょうか。



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