現代人の法話 
〜 自分が好きか?  〜

 最近の国際的世論調査機関の発表によると、世界七十四か国で「貴方は自分の国が好きですか?」という質問をしたところ、わが国は最後から四、五番目のランクだったそうです。今日、いくらバブルがはじけて不況の時代とはいえ、未だ世界第ニの経済大国や世界第一の長寿国を誇り、物質的に恵まれているにもかかわらず、この体たらくはどうしたことでしょう。
 同様に、「あんた、自分が好きか?」という質問をしたなら、貴方は何と答えるでしょうか。私の勤務する大学で、クラスの女子学生に同じ質問をしたところ、大部分の学生が「嫌いだ」とか「あまり好きでない」という答えが返って来ました。自分の国や自分に対して自信や誇りが持てないことは活力喪失に繋がり、いくら教育制度を改革したところで、すでに手遅れの感があり、わが国の将来にとって由々しきことです。おそらく戦前の日本なら、多くの人が「自分が好き」とか「日本が好き」と答えたことでしょうが、最近では私たちの間に絶望感や無力感が漂っているように見受けられてなりません。
 なぜこのように戦前と戦後では正反対の答えになったのか、その原因を質してみると、相次ぐ戦争に打ち勝って来た国威発揚期の戦前と、敗戦や周囲の国々からバッシングを受けて来た国威失墜期の戦後の差であろうかと思いますが、それにもまして、どうも日本人は、ちょっと勝ち目に遇うと有頂天になり、負け戦になると打ちひしがれて、やぶれかぶれになるという、優越感と劣等感の両極に揺れ動く振幅の度合いが大きいようです。
 わが国は明治維新以来、植民地化され属国化される危機に直面して、当時の指導者たちが先導し、欧米の先進諸国に追いつけ追い越せと、富国強兵の近代化に猛進した結果、今日の発展があったわけです。その間において、ときには勢いに乗じて枠を踏み外し、第二次世界大戦で惨敗の憂き目に遇いました。戦後はその廃墟から立ち上がり、挙国一致して復興に心がけた結果、軍事大国ならぬ経済大国にのし上がったわけですが、再び枠を踏み外し、バブルが弾けて元の木阿弥となりました。今度こそは、こうした二度の失敗をよき教訓として現実を直視し、今日、直面している政治・経済不況を乗り切らなければならないでしょう。
 それには従来のような、国家や政府に依存した甘え体質を払拭し、国民の一人一人が独立自尊の精神を持たなけれぱならないようです。かつて明治時代には政治・経済の牽引役となったのが維新当時の志士たちでした。彼らは清貧な生活を自ら実行し、経済道徳合一主義を貫き、二宮尊徳なども「道徳を忘れた経済は罪悪であり、経済を忘れた道徳は寝言である」と述ベ、モラルなき経済は長期的には失敗することを予期していました。ところが今日、政治も経済も生活自体も金権主義や拝金主義にまみれ、「あとは野となれ山となれ」で、多くの人々が、ただ儲かり、得すれぱあとはどうなってもよいといった目先の事にのみにとらわれているようです。それというのも、都市化や情報化が進み、人の直接見ていないところで、行為や取引きが行われているからです。
 しかしながらいつの時代でも、いかなる企業でも、究極的には人あってのことで、責任や信用が物を言うことには変わりありません。それには、単に目先の効率にとらわれ、儲け仕事をこなすことよりも、(それは短期的には成功するかもしれませんが)腰を落ちつけて自分のなすべき仕事に責任と誇りと自信を持って従事することだと思います。中国の古典『論語』に「修身、斉家、治国、平天下」という言葉があるように、まず、自分自身や家族を愛し、職場や国家を愛して、はじめて世界に平和が招来するのであって、いくら平和運動家のように、街頭で声高く「世界に平和を」と叫んでも、身近なところで争いごとがあるようでは、何のための平和かわかりません。
 愛国心というと、戦前を思い出して眉をひそめる人がいるかもしれませんが、いずれの国でも自主独立のために国民に「愛国心」を訴えないところはなく、わが国くらい戦後、自らの国家や国旗や国歌に対して引け目を感じる国民はいないのではないかと思います。愛国心ぱかりでなく、愛郷とか愛社精神、家族愛とか自己愛などというと、とかく古臭い、時代おくれのように考えられ勝ちですが、国を愛し、地域共同体を愛し、職場を愛し、家族を愛し、自分自身を愛する気持ちがあってはじめて、責任と節度ある言動や生き甲斐が生まれるのであって、それなくしては今後、とうてい厳しい現実を乗り切って行けないのではないでしょうか。



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