現代人の法話 
〜 凶悪犯罪を根絶させる方法とは 〜

 先頃、長崎で中学一年の十二歳の少年が四歳の幼児を駐車場の屋上から突き落とし、殺害するという痛ましい事件がありましたが、こうしたことはなるべくしてなったような気がします。ちょうど七年前に、神戸で中学三年の少年が猟奇殺人を起こした事件がありましたが、昨年だけでも十四歳未満の未成年者の犯罪は十六万二千件あったと報告されているように、その後、急激にこうしたか弱い相手を簡単に殺してしまうという未成年者の犯罪が急増の一途を辿っています。どうしてこうなってしまったのか、マスメディアを通じて多くの論者がその原因や対処法を論議していますが、いずれもただ発言し憂いているだけで、「ではどうしたならよいのか」という段になると決め手に欠けているようです。
 私に言わせると(もちろん勧善懲悪で、加害者本人の責任は免れませんが)こうした事態に陥ったのは、すべて今日の大人とその社会に責任があるといっても過言ではありません。特にわが国では高度経済成長を遂げた一九八十年代(昭和五十六年)以降、老いも若きも家族や周囲の人々とを省みず、お金やモノや知識の獲得に猪突猛進し、お互いが自己中心(ジコチュウ)に好き勝手な事をして来た結果といってよいでしょう。
 その間、自らが汗水流して働いてお金を得るよりも、座ったままラクして一攫千金を獲得する投機に走り、それに拍車をかけるように、科学技術が発達してテレビ、ビデオ、ゲーム、携帯電話などの電子機器が一般に普及し、過酷な現実から目をそらして非現実的な世界で遊ぶことを当然視するようになりました。そこではお金さえ払えぱ好きなものが手に入り、不特定多数の人を相手に、直接対面せずにボタンーつで何でも言いたい放題、したい放題のことが出来、画面や電波の上で殺傷しても痛みを伴わない仕組みになっています。こうした空想(ヴァーチャル)の世界をいつのまにか現実の世界と混同し、実際に相手を殺傷しても何ら良心の呵責がない不感症的人間を育ててしまうのは当然のことです。
 大人たちは折りからの高度経済成長に便乗してお金やモノの獲得に奔走し、勝手気侭な生活に没頭し、子供たちにただお金を与えて好き勝手なことをさせて放置し、人間らしい生き方を身をもって伝える努力をおろそかにして来た感があります。そうした親としての責任を放棄して子供の躾けを任された学校教師ですら、近代教育に災いされて知識を切り売りする労働者に成り下がり、受験本位の偏差値を高くする知育教育に専念し、自らの立身出世のために万事ことなかれ主義に終始して来たようです。マスコミの一部はそれに拍車をかけるように、言論や表現の自由を楯に過激なエログロ・ナンセンス物や空想のアニメ番組を報道して人々の快楽を煽り立て、世の師表たるべき県知事ですら最近、異性との不倫や公私混同のパチンコ遊びや献金疑惑で次々とその不祥事が暴露され、辞職する体たらくです。
 大人のこの無責任な金権主義や知育主義、保身主義や快楽主義が、直接、間接的に、自分のなすことの結果がわからず、欲望の赴くままにしたい放題のことが許されて来た子供たちに悪影響を与えないはずがありません。私たちは自分の言動が子供に(特に未成年者に)どのような影響を与えているかを真剣に考えたことがあるのでしょうか。それに汚染された子供の欲望の行き着く先が手段を選ぱぬ凶悪犯罪で、その防止や根絶のため後手に回っていくら少年法を改正し教育改革に心がけても、おそらく焼け石に水でしょう。大人たちはそれを気付かずに、まともな人間づくりをおろそかにして来たツケが今、回って来たのです。
 ではいったいどうすれぱよいのでしょうか。大人の私たちがせめてなしうることは、機械文明にかまけて非人間化されて来た現代社会の欠陥を直視し、今までの自分の誤った言動を総懺悔して、機会あるごとに子供たちに「自分はこういう生き方をしている」という信念を身をもって示すことことだと思います。そして、子供と一緒に汗水流して働く喜ぴを分かち合い、心の触れ合いを密にして、「わが身をつねってひとの痛さを知る」現実的な生き方を体験させなけれぱ、世の中から人を平気で殺傷するような凶悪犯罪を根絶させることは到底不可能でしよう。
 昔から「子供は親の言うようにはならない、しているようになる」とか「寝ていて、ひとを起こすな」と言われるように、自ら率先実行せずに、大人たちが金魔や快楽や保身に取りつかれたいい加減な生活を棚に上げて、子供たちに「まともに生きろ」とたしなめる資格や権利がはたしてあるでしようか。これはけっして他人事でなく、私たちにそうした忠告を自信と誇りをもって出来るかどうかが、今、間われているのです。



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