現代人の法話 
〜 畏友の死に際して思う 〜

 去る一月十八日、先師であり畏友である坂東性純師が心筋梗塞のため突然、他界されました。師とのおつき合いは今から五十年前の学生時代以来で、当時、第二回世界仏教徒会議が東京で開かれた折り、海外からの参加者の接待役として一緒にお手伝いしたのがきっかけです。
 彼はその後英国のオックスフォード大学に、小生は米国のハーバード大学に留学し、一時期離れ離れになりましたが、帰国後は再び英語研究会で交友を重ね、上野学園大学で一緒に教鞭をとるという好縁に恵まれました。同じ仲間であった有能で尊敬できる畏友の田村完誓、花山勝友、佐伯眞光と坂東性純師に先立たれ、ただただ驚くばかりで、只一人残った孤独感を噛みしめています。
 師の学識といい、温厚で品格のある態度といい、いつも誰に対しても謙虚で親切な態度はとても真似が出来ないほどで、啓発されることのみ多く、これからも指導して頂きたいと願っていた矢先に、再び帰らぬ人となってしまい、こんなことなら、もっと早くから教えを乞うていれぱよかったと悔やまれてなりません。私は及ぱずながら、彼の今まで与えてくれた学恩に感謝し、その願いに報いるべく、これからの残り少ない人生を最大限活用する事をその霊前に誓うものです。
 仏教ではよく「尊敬できる師友や、自分が窮地に陥ったときに助けてくれた人を「仏の化身」(仏のような人)という表現を用いますが、彼の絶筆となった次の文章が思い出されます。(『在家仏教』十二月号)
 「化身との出会いは、一般に人がある人なり対象との出会いに際し、人としての素質以上の何かを実感したときに体験されるようである。(中略)最後まで残る問題はおそらく「化身とは何か」「どこにあるのか」という問いであろう。これは辞書に載っている定義だけでは化身は全く理解できないので、人それぞれ自分の内心に向かって問いかけ、自ら満足のいく答えを見出すよりほかない」と。
 それについて本人が自覚していなくても彼はまさしくその「仏の化身」のような方でした。



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