現代人の法話 
〜 信仰とは進行なり 〜

 ここで言う「信仰とは進行なり」とは故椎尾弁匡(元大正大学長)先生のお言葉です。すなわち、「信仰」=「進行」とは、何時でも何処でも、自分のこの世でほんとうになすべきことを、たとえ誰から認めて貰えなくても、コツコツと実行することではないかと思います。すなわち、私たちの日ごろの生活の中で、ただ単に自分のしたい放題のことをするのではなく、宇宙のいのちのはたらきと合致させた如法の生き方をすることです。
 とかく信仰というと、特定の宗教団体に属し神仏を拝むことだと考え勝ちですが、それと同時に、折角与えられたたった一度しかない自分の人生を最大限活かすべく、自分の心身をフルに働かせて頂くことではないでしようか。ドイツの文豪ゲーテも「私たちは常に自分を変え、再生し、若返らせなけれぱならない。さもないと、凝り固まってしまう」と言うように、私は少なくとも年齢に関係なく、そうした日々新たな、溌剌とした生き方をしている人が信用や尊敬するに足る信仰者だと思っています。それにひきかえ、いくら自らは信仰者だと自認し、自分の能力、肩書、財産、家柄、容姿、職業などを鼻にかけて自己満足し、ひとを見下げたりする人を信仰者だと思いたくありません。
 私たちがこの世で生きていること自体に価値があり、たとえ肉体的、精神的に欠陥があり、世間的には生きる価値がないと考えられたとしても、人生の最後の時までこの世における私たちの使命が終わったとは言い切れないと思います。とかく私たちが健康なときにはいのちの尊さを自覚せず、病魔に侵され、死が目前に迫って生きる希望を見失い勝ちになったとき、それでもなお且つ私たちを生かそうと体内の呼吸器や血管が懸命に働いている事実を感得し、自分が生きているのではなく、生かされていることを実感できるのではないでしょうか。そうしたことを自覚したとき、信仰に目覚めるのだと思います。



Back