現代人の法話 
〜 いいものを少し 〜

 最近、マスコミなどで「たまに行くならこんな店」とか言って、珍しい料理や、大盛りつけの激安の店を宣伝し、そうしたお店に通ってお客も得した気分になるのかもしれないが、はたしてそこで食べて本当に満足したかどうかは別問題だ。というのは、いくら安くて大量の料理を出されても、こちちの体調が悪く、食べたい気分になれないとしたら「猫に小判」で、その食事を手放しで喜べないのではないか。やはり食べ物は、健康で、よく働いたあとの空腹のときが「旨い」ようだ。
 飽食の時代にあって、いくらでも安くて多くの食べ物にありつけるが、それを食べてみて旨くないからといって残したり、無理して食べて管を巻き、あとで整腸剤を飲むくらいなら、最初から食を控えたほうがましである。ところが大抵のお店の料埋は盛りつけが多く、年寄りなどは食べきれずに残す人も多いと聞く。
 これは食物だけの話でなく他の物品も同様である。一週間もすれぱ持ちきれない程、山のように溜まる一方の古新聞や折り込み、包装紙、手紙など、ポイ捨てもままならず、分別に憂き身をやつす人が何と多いことか。環境汚染や資源の枯渇が声高く叫ぱれ、わが国で消費する資源や燃料のほとんどを外国からの輸入に依存しているにもかかわらず、いくら債権超過でカネ余りとはいえ、それらを浪費してよいという理届はどこにもない。にもかかわらず、必要でもない電気や水や燃料を垂れ流し、見栄を張って高価なブランド物を買い漁る姿は浅ましいの一言に尺きよう。
 こうした人に対して『法句経』(一二一)は、「その報い、よもわれには来らざるべしと思いて、あしきを軽んずべからず。水の滴りて水瓶を満たすがごとく、愚かなる人はついに悪を満たすなり」と警告を発しているように、現代でも通用する教訓になろう。



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