現代人の法話 
〜 自分の信念を語れ 〜

 最近、解剖学者の養老孟司氏は『バカの壁』というベストセラーを出版し、そこで彼は近代主義に汚染された現代人は、人間中心の知性や自己中心の理屈に固執し、自然の一部である人類や周囲との共生なしに生きて行けない人間の存在を指摘している。こうした事実を知らずにわが物顔で生きている者を「バカ」と称しているのである。今日の自由競争の社会にあっては、知性や理屈の勝った者が「弱肉強食」や「適者生存」の法則に基づき、生き残ることが当然視されるが、そこで物質的、感覚的快楽を手に入れた現代人が、幸福な人生を送れるかどうかは別の話である。自分の心身を麻痺させ、ひとを押しのけ恨まれても栄華に酔いしれて、はたして安心した生活やしあわせな人生といえようか。
 我々、科学技術を発達させた近代主義の恩恵に浴する現代人は、ますます便利で快適な生活を追い求めつつあり、最早、過去の不快で不便極まりない原始的な生活に後戻りすることはほとんど不可能である。だからといってこのまま推移して行ったならぱ、心身の運動や労働の価値が消え失せ、座ったり寝たままですべての事を済ませるロボット的人間や生ける屍である植物人間に成り下がることだろう。欧米諸国の識者たちの間には、すでにこうした近代主義の弊害がもたらす現代人の行く末を懸念し、自分自身が健康で、まともな人間になるために、宇宙自然との共生や、その下での自覚をうながし、勤労の精神を重視する仏教的生き方に注目し、実践する人が増えつつある。
 仏教は元来、「山川草木、悉有仏性」と説くように、人類は宇宙自然の一部であり、すべて生あるものに仏性があり、また、その「自他一如」の教えは、自分と他人が同様に、いずれも区別こそあれ同一根源から派生したものであると説いている。これは最近の生化学の発達のお蔭で証明された、人間も動物も同じDNAの組み合わせの違いに由来するという事実とも規を一にしている。したがって人間同士がおのおの角を突き合わせて、お互いの優劣や勝敗を競い、殺傷し合うのは愚の骨頂だと言うのだ。
 こうした現代を超克する生き方をすすめる仏教の教えは、今から半世紀前までは欧米にほとんど知らされていなかった。わが国でも仏教といえぱ、葬式、法事という死者儀礼にまつわる古臭い非近代的な宗教か民俗慣習くらいにしか受け取られず、とくに明治維新の政教分離以来、近代主義を標榜する指導者層にとっては、なんら学ぶ価値のない過去の遺物的存在であったようだ。ところがここに来て、諸外国との交流が緊密化し、顔の見えない無国籍的日本人と批判されるようになって以来、自分の依って立つ思想を語る必要に迫られ、自国の伝統文化を再認識せざるをえなくなって来ている。
 こうした民衆のニーズに呼応する形で、今日の行き詰まった世界の政治、経済、宗教、社会を打開する一方策として、識者の間に仏教を再評価する機運が醸成されるようになった。たとえば国内では、京セラ会長の稲盛和夫、哲学者の梅原猛、文化庁長官の河合隼雄、画家の平山郁夫、作家の五木寛之、瀬戸内寂聴、放送作家の永六輔の各氏などである。かつては近代主義の急先鋒であったマスコミ界の朝日新聞や岩波書店までも、最近では仏教関係の記事や書籍を喧伝するようになったのは驚きだ。欧米諸国でもここ十数年来、わが国の鈴木大拙やチベットのダライラマ、ヴェトナムのチックナット・ハンなどの活躍により、仏教に対する関心が高まり、多くの仏教書が出版され、各地に仏教協会が雨後の筍のように続出している。
 今日の世界では人権や個性が尊重され、価値観が多様化して、それぞれが協調や協力することよりも独立や孤立化が進み、相剋や対立、競争、抗争が激化して人心が荒廃し、お互いが平和的に共存共生することが益々困難になりつつある。そこでこうした問題を解決するために仏教はいかなる建設的生き方を提示し、それに従う我々自身の信念が問われることになり、それができなければ、仏教も我々もおしなべて、自然に淘汰されることになろう。



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