現代人の法話 
〜 自己責任について 〜

 最近のイラクでの日本人拉致事件に端を発して、「自己責任」という言葉が喧伝されるようになった。ここで改めて問われるのは、われわれの自己責任と世界の平和と安全のために果たすべさ役割である。しかしながら残念なことにわが国民に、米国やイスラム教諸国や北朝鮮を説得しうる明確な理念とそれを発揮すべき実行力が備わっているかと問えば、おそらく「ノー」であろう。それどころか、国内的にも目下、わが国が直面している金融問題、年金制度、対北朝鮮外交、対中国外交、イラク復興支援、憲法改正、教育基本法改正、道路公団民営化などのいずれをとっても、政治家、国民共々が自分の利益を中心に内紛に明け暮れし、大方の信頼感やコンセンサスが得られないことだ。
 こうした人々の間には、戦後与えられた新憲法を金科玉条に墨守し、理想とするところは多とするも、その条文に固執している人が何と多いことか。たとえぱ第三案の「国民の権利と義務」の項で、「権利」が十六回、「自由」が九回に対して「責任」が四回、「義務」が三回しか記されておらず、その義務たるや教育を受ける義務と勤労の義務は本人のためになるもので、一国家に対する義務ではない。こんなことから、外国で拉致されるや自己責任を忘れて政府に保護の権利を訴えたりするのだろう。とくに戦後の米国型民主主義や旧ソ連の共産主義に汚染された人々の間には、過去の宗教的、文化伝統を封建主義の残渣として一蹴し、近代主義の名の下に個人主義を喧伝し、自由をはき違えて利己に走り、義務を忘れて権利の主張をして憚らない人が続出しているようだ。
 指導的立場にある学者や評論家、教育家、宗教家、マスコミ関係者なども明確な理念や処方箋を示さず、国民自体もおしなべてこれらの問題に対して深く考えずに及び腰で、危機感に乏しく「いずれどうにかなるだろう」とタカをくくっているふしがある。このような自分の信念もなく、優柔不断な態度でどうして周囲ら納得され信頼される国家や国民として他に働きかけることができようか。

「何事も信用第一」
 私たちの周囲には「これもできます、あれもできます」と気安く仕事を引受けながら、いざその約束を期待して待っていると、いつまで経ってもなま返事で、再度催促すると「いや、まだです」とすげない返事が返って来て、がっかりさせられることがあります。世間には往々にしてこうして相手の期待を裏切り、約束を破りながら慙愧のひとかけらもない人がいるようです。
 私はこれまでこうした人から裏切られて来たかはかり知れないものがあります。例えば知人の大学教授に依頼した原稿を「何日までに必ずお届けします」と承諾しておきながら、その日が来ても出来上がっておらず、一度、頼んだ以上、断るわけにもいかず、後日催促すると「出来ませんでした」というつれない返事で、こんなことなら最初から依頼しなけれぱよかったと悔んだことがあります。もちろん、約束を守れないのは、よくよくの事情があってのことでしょうから、その場合はいち早く相手に誠意をもってその理由を伝達するなり、謝罪して断るべきでしょう。そうすれば納得して許せても、平気で約束を破り、同じことを繰り返されると「もう二度と頼むものか」ということになり、信頼関係が保てなくなります。
 昔の武家は「武士に二言なし」と一度約束したことは必ず守り、万一破らなければならない羽目に陥った時には切腹してお詫びするくらいの気構えを持っていたといいます。作家の里見淳さんも『多情仏心』で、老弁護士の桑木博士に「世間の信用をなくしたが最後、人間、どうじたばたしたところで、もうだれも相手にしてくれませんからね」と語らせているように、対人関係、とくに商売事は「モノを売るのではなく信用を売る」といわれるくらい、約束ごとを厳守して相手から信用されることが大切です。こうしたことを守れない人は「自業自得」で、いくら能力や財力や権力があってもいつしか相手が寄りつかず、世間から敬遠されて仕事も減り、失意の日々を送らなけれぱなりません。
 最近、頻発する個人の詐欺事件や企業体の不祥事はその延長上にあり、世間にわからなければいいだろうと多寡をくくって不正を犯し、暴露された暁には世間やマスコミから糾弾されて信用丸潰れになっています。一度信用を落とすと「覆水盆に返らず」で、その再起は一度割れた陶器のひびを補修する以上に難しく、ツケが回って自分の首を締める結果となるようです。そうした怖さを知ってか知らずか、世間には平気で約束を破り、信用を落とす人が何と多いことでしょう。とやかく言うのは「他人のお節介」かもしれず、本人が痛い目に合い発得するまで、ほっとくべきでしょうか。



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