現代人の法話 
〜 宗論はいずれが勝っても釈迦の恥 〜

 自分の人生にとって頼り甲斐になる教えや主義を見い出し、それによって自分の生き方に自信がつくと、とかく私たちはそれを誇りにし、一人でも多くその素晴らしさを他に伝えようとします。その事自体は誠に結構なことで、こううしたけなげな精神から伝道が始まるのでしょうが、それが高じると他を折伏し、それに屈伏しない人を時には誹謗し、弾劾するので要注意です。世に言う完全主義者や原理主義者にこの類が多く、全ての人々がその信じる教え一色に染まり、改宗しないかぎり世界に平和は招来しないと信じているのかもしれません。
 しかしながら、人には人の機根や生き方があり、いくら相手を屈伏させ、洗脳しようとしても、根本から変革するのは至難の技でしょう。それぞれ誰しも自分を中心にしてその思う通りになることを望んでおり、特定の主義を信じている人は、往々にして「わが仏のみ尊し」として、自説を他に押しつけ勝ちで、相手もそれに従えぱ満足でしょうが、そうは簡単に問屋が卸さないのが世の常です。にもかかわらず、巷では今もって正義や聖戦を振りかざし、相手が自分たちの教えや主義に従うまで、闘いを止めないのはどうしたことでしょう。こうした人にとっては、自分の依って立つ教えを知っているだけで、他の立場を理解できないので、到底、共生はできず、井戸の中の蛙のそしりを免れません。私たちは自己主張をし、他者を批判する前に、まず自分の不甲斐なさや至らなさを反省し、懺悔する「脚下照顧」の精神を持ち合わせたいものです。



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