現代人の法話 
〜 日蓮は泣かねども涙ひまなし 〜

 私は米国から十二年の滞在を経て帰国以来、早や三十五年の歳月が経ち、その間、わが国の仏教界の現状を垣間見、私自身も寺院住職の末席を汚して、教化の一端を担って来たつもりです。しかしながら、はたしてどれほど仏教的生き方を周知徹底させたかと自問自答したとき、忸怩たるものがあります。
 今日の世界は、国内では指導者層の不祥事や凶悪犯罪の増加、道徳心の低下などで国民同士の不信感が増幅し、海外では一神教徒同士の無差別テロ事件などで、混迷の極に達している真只中にあって、わが国の仏教界はその宗教的、精神的指導性を内外に発挿する好機が到来したにもかかわらず、現状は各宗派や寺院、僧侶が分立し、とてもその期待に応えるだけの思想や組織、人材が充当されているとは思えません。
 わが国の各宗祖は自分の人生を仏教の基本に照らし合わせて独自の解釈を展開したわけですが、「宗論はいずれが勝っても負けても釈迦の恥」で、私たちはその枝葉部分にこだわって来た感があります。今後はその原点に立ち帰り、「ナゼ今、仏教でなければならないのか」を再検証する必要があるのではないでしようか。
 一部の人を除き、たんにしきたりとしての仏教や宗派に従うだけで、確固たる信念や思想をもっているとは到底思えません。外国人から「あなたの宗教は?」と問われて、自信と誇りと謙虚さをもって答えられる人がどれほどいるでしょうか。
 こうした面はゆい現実を見て、ちょうど日蓮が冒頭の句で憂いているように、私たちは一致協力して仏教再生によって国内外の人々に夢と希望を与える義務と使命があるのではないでしょうか。もしそうした気概もなく、仏教を慣習の具としてもて遊び、安閑とした毎日を送っていたなら、仏罰があたること必定でしょう。



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