現代人の法話 
〜 これからの宗教とは如何なるものか? 〜

 人類が地球上に生存して以来、過去から現在に至るまで、世界各地には数多くの宗教信仰体系や宗教教団が存在し、それに依って立つ人々の個人的救済や社会的、文化的発展に寄与して来たことは言うまでもありません。が、その反面、それにはまり込み熱心に信心すればするぽど、ときには狂気に走り、他と軋轢を起こして自他を傷つけて来た歴史的事実を否定するわけには参りません。したがって特定の信仰や宗教教団に走ることは功罪半ばするものがあり、単純に勧めるわけにはいかず、かといって、いかなる信仰や宗教教団の存在価値を否定し、無視したとしても、そこで安心立命がえられ社会の秩序がはかられれぱ結構ですが、もし勝手気侭で自堕落な生活に明け暮れし、周囲との軋轢や葛藤を醸成しても平気でいられるとしたなら、何をかいわんやです。
 今日、世界各地で政治や宗教や民族を背景とする紛争が頻発している現状を鑑みると、そのほとんどがそれぞれの依って立つ共同体の利害関係にその原因があるように思われてなりません。というのは、その成員が自らの個人的救済のためというよりも、それぞれの依って立つ共同体の維持拡張のため、お互いが張り合っているような気がしてならないからです。とくに米国での九・一一事件以来、一部イスラム教やキリスト教原理主義者たちの聖戦や正義を旗印にした発言や行動を見ていますと、宗教が個人のためというより共同体のために奉仕し犠牲になるという動機が顕著で、こうした「ハードな宗教」がもし世界中を席巻するようになれば、対立や抗争がますますエスカレートして第三次世界大戦にまで発展しかねない悲惨な状態に突入することでしょう。これでは宗教が世界の平和に寄与するどころか、むしろ人類の破滅に陥る、危険きわまりない信仰体系や教団になりはててしまいます。おそらく良識ある人ならぱ、そうした宗教的信仰体系や宗教的集団を望まず、いち早く立ち去るべきでしょう。
 だからといって、いかなる宗教的信仰体系や宗教的集団が無意味、無価値であるということにはならないと思います。その証拠に、今もって多くの人々は心の拠りどころとして何らかの神仏に祈りを捧げ、関係する故人の墓詣でをする事実を否定できず、今後もこうした心情や行為を強制的に規制、禁止することは到底不可能でしょう。問題なのは宗教的信仰体系や宗教的集団自体にあるのではなく、それを成り立たせている人々の心構えや態度にあるようです。そこで望まれるのは私たち誰もが人生の原点に立ち還って、自分の安心立命のための「ソフトな宗教」を志向することではないかと思います。
 そこで以下に述べることは、まともな人間になるための手段として、誰もが等しく志向できるような「ソフトな宗教」に欠かせない五つの条件を挙げてみたいと思います。すなわち、(一)誰でもの宗教、(二)誰もが実行できる宗教、(三)自らの心と体の健康を増進する宗教、(四)宇宙・自然と一体の宗教、(五)自他の存在を認める宗教などです。こうした「ソフトな宗教的生き方」をすることによって、自らは孤立や孤高せず、他の人々や社会との良き関係を保ちつつ意義ある人生を送ることで、そうした同信者がなんらかの宗教的集団を形成するのは自然の理でしょう。
 すなわち、(一)「誰でもの宗教」とは、人種、民族、国籍、老幼男女、貧富、家柄、肩書、階級、能力の区別なく、すべての人が参加し、お互いがタテの関係ではなく、ヨコの関係で協力し切磋琢磨して共に「しあわせ」になる資格や権利があることを勧めるものです。(二)「誰もが実行できる宗教」とは、理屈や知識や資格の多寡を問題にするのではなく、現実の社会で培う経験や体験を重んじ、そこで培った知恵に基づいて、いつでも何処にあっても人生そのものが修行の過程であると考えるものです。(三)「自らの心と体の健康を増進する宗教」とは、精神と肉体を別物と考えず「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」という相関関係でとらえ、それぞれを鍛えることによって真に健康な人間になることを志向するものです。(四)「宇宙・自然と一体の宗教」とは、自然環境やその産物である他の生類を人類の利益のために支配し消費するのではなく、共存共栄をはかるものです。(五)「自他の存在を認める宗教」とは、自らの信ずる宗教・信仰を正当化するために他を異端視して排除することなく、それぞれの固有性や独自性を尊重してお互いが仲良く、総合的に究極の平和を志向するものです。
 以上の観点からすると、今日、存在しているいずれの宗教教団も大なり小なり、過去においてこれらの案件を満たして来たものは皆無に近いような気がしてなりません。とくにキリスト教、ユダヤ教、イスラム教のような既成の一神教的宗教においては、唯一絶対の神を奉持するあまり、信仰内容を正邪に峻別して他を排除する発想から抜けきれず、今もって世界各地で他宗教信者や同宗信者同士で葛籐を繰り返しています。その点で、どちらかというと多神教や汎神教的な仏教、ヒンズー教などの宗教は比較的他宗教に対して寛容ですが、いざ火の粉が自らにかかればどうなるかわかりません。
 ここで、声を大にして今までの既成宗教の信仰体系や宗教教団の犯してきた誤謬を指摘し正して行かなければならないことがあります。というのは、たしかに過去の時代には、神仏が実際に森羅万象や人に宿り、天災人災が起きれぱそのたたりを恐れて生贄や供物を捧げて、仲介者たる聖職者や祈祷師にとりなしを依頼して来た歴史があります。今もって現世利益の商売繁盛、病気平癒、交通安全、合格祈願などに神社仏閣に詣でて一心に祈る姿にはほほえましいものがあります。しかしながら、いくら大枚をはたいて祈願したところで、それで念願が確実に成就したでしょうか。もちろん「当たるも八卦、当たらぬも八卦」で、宝くじのように当たる場合もありましょうが、それは本人の努力や周囲の条件が整ってはじめて実現するのであって、祈ったからといって願いが叶うとはかぎりません。ご利益は祈る本人の努力や周囲の条件がそうさせるのであって、神仏が叶えさせるのではなく、神仏はあくまでも方便なのです。
 従来、多くの人々は科学的知識の不足や無知から、自らの信ずる宗教やその主体となる神仏の存在を実体化し、あたかもそうした神仏がこの世やあの世に実在しているかのように信じて来ました。こうした俗信や迷信を無知蒙昧な過去の人間だけでなく、現在でも、とくに一神教の原理主義者たちは頑に信じ、その実体化した宗教や神仏の美名の下に他と優劣を競い、いたずらに葛籐を繰り返して尊い自他の人命やその資産を犠牲にしているようです。
 よくよく考えてみますと、そうした宗教や神仏は実際に世の中に存在するのではなく、人間が生み出した神話や概念や属性にすぎないにもかかわらず、お互いがその名称にこだわって、他を排除するとは何と愚かなことを仕出かしているのでしょう。もし、こうした宗教の信仰体系や宗教教団があらゆる手段を講じてその信者の数を増やし、世界の政治や経済の覇権を握って人類の生殺与奪の権力や権利を握ることになったなら、今まで以上に既存の国家や民族、宗教間の葛藤や対立が激化し、共倒れして人類の破滅に向かうことは火を見るより明らかです。
 それぞれ異なった名称で呼ばれる神仏がはたして存在するかどうかは、人知の及ぶところではなくわかりませんが、しかしながら、春が来れば黙っていても草木が芽を出し、花を咲かせるように宇宙・自然の「偉大なるなにもの」かの摂理が確実に働いていることは事実のようです。それはちょうどニュートンが発見した「引力の法則」のように、それを信じると信じまいとにかかわらず、すべてのものにわけへだてなく働いており、それを否定することはできません。私たちはその法則の下に生存をしているわけです。
 こうした観点に立ったとき、これからの人類の蘇生に向けて一縷の望みを託せる既存の宗教思想を探すとしたなら、私たちにとって古色蒼然として風景化し、見放された仏教が実は世界の識者から見直され、その任に耐えうるものではないかと考え、以下、その理由を述べたいと思います。
 第一に、仏教はその開祖・釈尊が生まれた紀元前五世紀のインドでは、当時、その古代宗教であるブラフマン教の階級制度(カースト)によって人々は差別され、聖職者階級のブラフマンを頂点として、釈尊の出自も二番目のクシャトリア階級(王族)に属していました。現在でもインドの社会では表向きはこうした階級制度は撤廃されましたが、裏面では依然として階級間の差別が存在し、下層階級出身者はいくら実力があっても社会の上層に進出できないようです。こうした現実を目のあたりにして王族の子であった釈尊は「人間の価値は生まれによって決まるのではなく、その努力の結果による」として、自ら王城を離れ、一介の求道者として修行したのでした。その結果、悟りを開いて「仏」(覚者=最高のしあわせ)となり、誰もが家柄や出自に関係なく努力すれぱ「仏」になれる道を開いたのです。このように万人に開かれた宗教が仏教なのです。
 第二に、私たち人間にとって「しあわせ」になる素質や可能性は誰にでも備わっていることです。かつては一部の特権階級や恵まれた人だけが「しあわせ」を享受し、そうでない人は一生涯、社会の下積みの生活を余儀なくされて来ました。こうした家柄や権力や富や名誉の持ち主だけがよい目に遇って、それ以下の人を睥睨し無視する生き方は民主主義の社会において到底許されることではありません。また特定の知識、労カ、時間のある人だけが「しあわせ」になれる資格や手段があるというのも一種の差別や不平等感を醸成します。そうではなくて、誰もがいつでも何処でも「しあわせ」になれる手段を持ち、実行できることが肝要です。その点で仏教では誰もが実行できる手段として座禅、瞑想、念仏、唱題などを勧めています。
 第三に、私たちがほんとうに「しあわせ」になるためには、自らの心と体の健康を増進させるものなければならないと思います。一般に宗教的な修行には禁欲や苦行が不可欠だという考えがあるようですが、たとえそうすることによって一部の人に最高の法悦が約束されたとしても、健康を害してしまっては何にもならないでしょう。「健康」とは「健体康心」の省略語で、精神と肉体のバランスが大切であることを示唆しています。釈尊自身が「楽器の弦は強く張っても緩く張ってもよい音が生まれない」と述べたように、過度の快楽や苦行の両極端を離れて、健全な精神と健全な肉体の程よいバランスを保つ(中道)ことが大切なのだと思います。
 第四に、今日、産業革命以降、近代化、工業化、都市化、情報化の波に乗ってたしかに私たちの生活は快適になりましたが、その反面、資源の枯渇や自然環境の破壊が加速化し、その反動によって、宇宙・自然からシッペ返しを食らい、身体の内外から犯されつつあります。そこで自然との共生と、人間のあくことなき欲望の拡大に歯止めをかけることが急務となっています。
 キリスト教やユダヤ教の旧約聖書では自然は霊長動物である人類が支配し使役すべきものとして扱われていますが、その点、仏教では釈尊の入滅の折り、多くの動物が嘆き、娑羅双樹から曼陀羅の花が散ってその死を嘆き、「山川草木、悉有仏性」を説くように、当初から人類は自然の一部であり、その共生をうたって来ました。最近の生科学研究の成果により、人類も他の動物と同じDNAの遺伝子を共有していることが証明されている今日、精神的、肉体的工ネルギーの枯渇を招いた都市中心の近代文明の弊害を是正し、人間の持つ潜在的活力を活性化させるためにも、自然に還り、自然と共生する必要があろうかと思います。
 第五に、いくら自らの信じる信念や宗教が優れているからといって、それによって他を卑下し、拒否乃至排斥するということは、今後の世界にとって望ましいことではありません。今日、中近東や欧米諸国において頻発している対立、抗争やテロ事件の背景には、政治的、経済的、社会的原因があるにしても、そこにはキリスト教、ユダヤ教、イスラム教などの抱く一神教特有の神を唯一絶対視する考えが介在しているように思われます。その点で、仏教には多くの仏を信奉する多神教や汎神教的要素があり、人種、民族、国籍、宗教、老幼男女、貧富の別なく、平等に、真に尊敬出来るすばらしい人やその思想や生きざまを見習い、自らもそのような人になるべく生きることを教えています。
 以上のことを要約すると、(一)何ものにもとらわれず自由に生きる、(二)働いて元気に楽しく生きる、(三)何ごとにも感謝して生きる、(四)ものを大切にして生きる、(五)周囲に喜ばれて生きる、をモットーに生きられれぱ最高に幸せ(仏の境地)になれるのではないかと思います。ところが現実には、つまらないことにとらわれ、心身の健康をおろそかにし、他に要求ばかりし、ものを粗末にし、周囲から嫌われても平気で、何事にも自分の思い通りにならないと不満と愚痴をぶちまけて毎日を送っているのであってみれば、自業自得でそのツケが回り、しあわせになるどころか不幸の権化となり、わが身を滅ぼす原因を自分で作ることが関の山でしょう。
 中国唐時代の禅僧・百丈に「一日働かざれぱ一日食らわず」(百丈清規)という言葉が残されています。私はこの言葉が好きで日常の「座右銘」にしています。これは新約聖書にある「働かざる者食うべからず」(テサロニケ3・10)という他律的な戒めでなく、あくまでも自律的な戒めで、「信仰とは進行なり」という言葉があるように生活の中で日々新しくなり、進歩することだと解釈しています。したがって、常に昨日までの自分を反省し、今日の自分がいくらかでもましなものになるように、仏の加護を頂いて生きることではないかと思います。
 かつて文学者の武者小路実篤さんは「自分の前に道はない、自分の後に道はできる」と詠んだことがありますが、しあわせになる仏の道とは、毎日毎分、自らがまだ踏んだこともない未踏の地をコツコツと歩むようなもので、その歩み方如何によっていろいろな道が出来るわけです。過去に作った道を眺めて悔やんだり悩んだりしても始まらず、たとえそれが屈折や挫折した道であったとしてもそれはすべて今後のよき肥やしとして受け止め、眼前に立ちはだかる道なき道を、以上に述べたような教えをモットーにして、希望と夢を持って歩めば、きっと「自分は生きていてよかった、ほんとうにしあわせやなあ」という感慨に浸れるのではないでしょうか。こうした人がこの世においてもあの世においてもしあわせになり、仏となるのだと思います。
 おそらく皆さんは今まで、宗教とは特定の神仏を信奉する意識や行為であり、「仏とは仏教の開祖・釈尊をはじめ、悟りを開いたえらい坊さんや故人が仏となるのだ」と考えていたかもしれませんが、実は日常生活の中で誰もが実行可能な道であり、私たち自身が仏のような理想的人物になる可能性を秘めた人間なのです。ただそれを今まで知らなかっただけにすぎません。これからは貴方自身がしあわせになるために、ときには休んで今まで辿って来た道を振り返りながら、いくらかでも仏のようなましな人間になるように、自分の足でコツコツと歩んでみませんか?そこに出来た道が貴方の宗教であり、残された足跡がほんとうの貴方自身なのです。



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