現代人の法話 
〜 私にとっての戒律 〜

 私たちは、ひとから「こうしろ、ああしろ」と命令されたり、強制されたりするのは嫌なものです。しかしながら会社や組織などに就職すると、ときには自分がそれに従うことが嫌いであっても宮仕えの悲しさで、従わざるをえない場合が多いようです。また、ひとから忠告されたり叱られることも嫌なものです。とくに自我の強い勝気な人にとっては、ひとを従えることは楽しくても、従うことには不満がつのるようです。
 ひとに「こうなって欲しい」と自分の考えを伝えて期待し、その通りのことをしてくれれば喜び、してくれなければ悲しむのが普通ですが、現実はそうは簡単に問屋が卸さず、ときには自分の期待と反対の結果が現れて失望し、憤懣やるせなく、その相手を非難し痛罵する人を見かけます。しかしそうすることによって自分をますます窮地に追い詰めてしまうのではないでしょうか。そう考えた結果、私はあまりひとをあてにしないようにしています。自分の思う通りにしてくれれば有り難いと思って感謝し、してくれなくても、ダメで元々と考えればそんなに苛立つこともないからです。
 それよりももっと大切なことは自分自身をコントロールすることです。原始仏典の『法句経』(159)で「ひとに教える通りに自分が行え。自分をよく調えた人こそ、ひとを調えるであろう。自分はほんとうに御し難い」と述べられているように、ひとを教えるより自分の欲望をコントロールするのがより難しいと思います。大抵は自分は怠けて、寝そべっているくせに、ひとを叱咤して起こそうとしがちです。ひとに期待する前に自分が手本を示すことが大切なのだと思います。
 そんなことから、私は自分自身に、好きでやれそうな宿題を自分に課すことにしています。それというのも、「今なさざればなす時ぞいつ、君なさざれぱなす人ぞ誰、今なすべきなり、君なすべきなり。時は行く、人もまた行く」で、「老少不定」の私たちの人生は、いつどうになるかわからないので、後で悔いが残らないように、今日できることは今日やるようにしています。ジョージ秋山さんの漫画「浮浪雲」によると、勉強に身の入らない息子に主人公はこう言ったそうです。「富士山に登ろうと決めた人だけが富士山に登ったんです。散歩のつもりで登った人はひとりもいませんよ」と。自分が「これをやるぞ」と目的を決めて、それに向かってコツコツ歩んで行けば、いつかはその目的に到達するものです。たとえ頂上に到達しなくても、「自分にはこれだけやれた」という満足感や充実感が湧き、三合目は三合目なりに、五合目は五合目なり、今まで体験できなかった新しい視野が開けるのではないでしょうか。



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