現代人の法話 
〜 自分を診る 〜

 私たちはたいてい自分の利益になることには精を出し、不利益になることは見向きもせず、自分に味方する者はいい人だと引き入れ、非難したり敵視する人は悪い人だと退けています。このように物事にせよ人にせよ自分の趣向で選り好みをしながらお互いの角を突き合わせ、一喜一憂の生活を送っています。そこではお互いが自分を中心とした生活をしていますから、当然、利害関係が合致する相手とは連衡合従し、反する相手とは対立・反目せざるをえません。
 こうなるのもすべて私たちのエゴのなせる業で、そうした自分の愚かさを認め、凝視すればするほど真実から離れた自分の至らなさに唖然とします。が、たいていはそれに気付かず、また気付こうともせず、私たちは真実をねじ曲げてまでも偉そうに振る舞っています。
 仏教詩人の榎本栄一さんは「浄瑠璃の鏡」と題して、次のように詠んでいます。「どこをとりあげても、感心できる自分でない。もし浄瑠璃の鏡があって映しだされたら、恐れいりましたと頭をさげるほかない」と。
 自分という名のお碗を伏せていたり、中にエゴの具を詰め込んだままでいたら、いくら仏の救済のはたらきがあっても、それを受け入れる余地がありません。自分の愚かさを虚心坦懐にさらけ出し、中身を空っぽにしてその身勝手さを仏に総懺悔した人のみに真実が見え、その恩寵に預かれるのだと思います。



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