現代人の法話 
〜 誰もが知っているお経とは 〜

 日本人なら誰もが知っている「イロハニホヘト」という日本語のアルファベットは、実は仏教の教えのエッセンスを詠んだものだということをご存じでしょうか。わが国では「いろは歌」として知られ、平安時代の真言宗の祖、空海が作った歌だとされていますが、もともとはインドで作られた原始仏教経典の『大般涅槃経』の中の「夜叉説半偈」にある「諸行無常、是生滅法、生滅々已、寂滅為楽」を意訳したものです。これらを和訳すると次のようになります。

  色は匂えど  散りぬるを  わが世誰ぞ  常ならむ
  有為の奥山  今日越えて  浅き夢見し  酔いもせず

 仏教学者の雲井昭善師はこれを「有為の諸法はこれすべて無常に帰するものなるぞ、恩愛和合する者は必ず別離が世の常ぞ、諸行の法はみなおなじ、憂い悩みを生ぜざれ」と意訳しています。また仏教者の荒川元暉師はこれを「もろもろの作られたものはすべて無常である。生まれたものは死ぬのが世のならいである。人々は生まれることと死ぬことに心を奪われている。その心を滅ぼした時、初めて安楽になるのだ」と現代語訳しています。
 これを私なりに解釈すると、「すべてこの世の存在は固定したものではなく、絶えず変化の過程にあり、無常なもので私たちの命とて例外ではない。にもかかわらずそれを固定的に考え、こだわるのが私たちなのであるから、常にとらわれることなく、しっかりとその実相を見つめることによって安心がえられる」ということになりましょう。
 ところが「わかっちやいるけど止められない」で、大抵の人はいつまでも生きている気の顔ぱかりで、自分の寿命や最愛の人とのこの世での関係がいつまでも続くものだと考え、またそう願っているようです。しかしながら鎌倉時代の親鸞の作といわれる、「明日ありと思う心のあだ桜、夜半に嵐の吹かぬものかわ」で、事態が急変し、医師から「余命いくばくもない」と死の宣告を受けたり、最愛の人との生前中の別離や死に直面するとあわてふためき、気が動転して何も手がつけられないといった状況が現出したりします。こうしたときに初めてこの世の無常を痛切に感じとらされ、あらためて「一寸先は闇」といった実感を味わうことになります。
 以上、述べたこれらの句は、この世を無常な浮世と諦めて悲観し、すべてなすべきことに手が付かず、やぶれかぶれの毎日を送ることを勧めているわけではありません。仏教では逆に、そうした有為転変の世の中だからこそ、私たちは一刻一刻を「今が最後だ」という気概を持ち、自分の能力や状況に応じてこの世でなすべきことに最善の努力をし、悔いのない人生にすべきことを勧めています。
 自分自身を生かすにはまず独立し、周囲に頼らない自立自助の精神を働かせねばなりませんが、私たち人類を称して日本語では「人間」という言葉を用いているように、この「人」とは象形文字で、案山子のような一本立ちでは生きられない存在を指し、「間」とは「間柄」とも言うように、「他との関係性において生かされ生きていられる社会的存在であることを意味しています。その「人間」とはちょうど「織物」にたとえてみるとよくわかると思います。「織物」はタテ糸とヨコ糸を交互に編んで作られたものであり、タテ糸は芯となって変わりませんが、ヨコ糸で編んだ模様によって織物が仕上がるようなものです。いくらタテ糸がしっかりしていてもヨコ糸との関係で織物が美しくもなり醜くくもなります。したがってタテ糸という自分の生き方と、ヨコ糸という周囲の師友や環境との交わり方如何によって、自分が高められたり、卑しめられたりするわけです。
 こうした自分と周囲との関係は固定的なものでなく、自分も相手や環境も一刻として止まることを知らず絶えず変化の過程にあり、昨日仲良かったからといって明日も仲良いとはかぎらず、お互いの交わり方次第で、仲良くもなれば嫌いにもなるものです。したがって冒頭の「いろは歌」で、昨日まで美しく咲き誇っていた花が今日は枯れて無残な姿をさらけ出すと同様に、私たちのこの世の命も、関係者との友情や愛情もたった一時のことで、それを保とうとするお互いの努力もなしに、いつまで続くと期待してとらわれ、それが絶たれたときに悔やみ恨むのは、この世の「無常」の理を知らないからでしょう。
 このように考えますと、仏教者の椎尾弁匡師が「ときは今、ところあしもとそのことに、打ち込むいのち、とわのみいのち」と詠んだように、私たちの人生の一駒、一駒を大切に感謝の気持ちをもって生き抜くべきではないでしょうか。



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