現代人の法話 
〜 募金運動の期待に応えて 〜

 ここのところ関係諸団体から記念事業や基金募集のための「金送れ、金送れ」と、矢継ぎ早の依頼が続き、その期待に応えるべく、うれしい(厳しい?)悲鳴をあげている今日この頃です。たしかに社会に役立つ立派な慈善事業を実現するには資金が必要であり、それに対して応分の喜捨することは社会生活を営む私たちの当然の義務であり、出来るかぎりのことをしてあげたいと思っています。
 仏教では、苦しみ悩んでいる人に対して「抜苦与楽」(苦しみを取り去り、楽を与える)の「慈悲」(おもいやり)を実行し、共にしあわせになる道を説いています。私はその教えに従い、今日まで生きて来られた感謝の気持ちとその万分の一のご恩返しにと、何か自分に出来ることはないかと考えて来ました。その社会還元の意味で、飢餓や生命の危機に瀕している人びとの一助になればと、今まで好きだったお酒、煙草をやめ、不要品の購入を節約し、及ぱずながら溜めた私費を救済基金や伝道の出版活動に投じて来ました。ジョン・レノンの奥さんであるオノ・ヨーコさんも言っていました。「人のためにやっているってことは、結構、自分のためにもなっているんですよね」と。私も同感です。
 お金は諸刃の剣で、節約して有効に使えば「生き金」として役立たせることが出来ますが、いくら溜めても使わなけれぱ宝の持ち腐れの「死に金」になってしまいます。余分なお金はあの世に持って行けるわけでなし、自分や身内のためだけに浪費するなら、周囲から羨望や妬みを買うのがオチでしょう。そこで私は、募金に応じるため、次の三つの観点から諾否を決めることにしています。
 第一には、募金の主催団体が社会的に認知されており、募金の趣旨や使途が明確で、主催者自身が身銭をきって率先実行し、資金が前向きに受益者の明るい未来のために生き、その成果を事後報告しているかどうかです。第二には、その団体がいくら美麗字句を並べて掛け声高く募金活動を展開しても、それが後ろ向きの自己保全や売名行為で自分の懐を傷めず、「捕らぬ狸の皮算用」で人のお金をあてにしているならば、募金に乗り気になれません。第三には、その団体が紙きれ一枚の趣意書と振替用紙を同封して募金に乗り出し、送金しても事後報告もなく、ドブに捨てるように受益者に浪費されるものであるならば応ずる意味や価値がなく、丁重にお断りすることにしています。
 以上のことから、もし第二、第三のような募金運動をしているのであれば、貴重なお金を寄進した人たちに申し訳なく、それだけの資金が得られるのなら、私だったらどれ程有効に使えるのに、と本当に残念でなりません。




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