現代人の法話 
〜 言外の言を察する 〜

 私たちには本音とは言葉に表せないものだという暗黙の了解があります。その証拠に、遊び相手の異性には平気で「あんたを愛している」と言えても、ほんとうに愛しているのなら、そんな言葉を吐くのはてれくさいことでしょう。本音はそれとなく態度で表すとか暗示を与えるとかして、相手がそれを察することを期待するようです。こうしたことを「側隠の情」と呼んでいます。この理屈や言葉で表せない「側隠の情」を心理学では、私たちの意識下にある「無意識」と呼んでいます。
 無意識とは身体全体でとらえなければ絶対にわからないにもかかわらず、現代人はこの無意識の領域を理屈や言葉という狭い領域でとらえようとしています。それはちょうど大海からの水を杓で掬い、それで大海全体がわかったつもりでいるようなものです。
 世間では最近頻発している「親の子殺し」や「子の親殺し」などの凶悪犯罪や殺傷事件を他人事でないと考え、この問題を教育界やマスコミが取り上げて「なぜ殺人はいけないのか」とその原因を追求し、防止策を練っています。しかしながら、いくら議論しても決定的な解決方法が見つかるわけがありません。というのは、科学では「いかにして」は追求できても、自然の産物である「なぜ」かは追求できないからです。その証拠に、殺人を「いかに行ったか」を事後に詮索することは可能ですが、事前に予知し、防止することは到底不可能でしょう。「殺すことはダメなんだからダメ」で、絶対至上命令です。
 この無意識の行為を言挙げすると、その途端に中身が変質してしまうので、昔の人はそれを「言外の言」としてタブー視し、いのちの尊さを身をもって率先実行して来ました。
 仏教ではここのところを「説似一物即不中」(一物を説けば即ちあたらず)ととらえています。現代人はこの事実を知ってか知らずか、何事もわかったつもりで殺人行為の原因を理屈や言葉で追求していますが、そうは簡単に問屋が卸しません。私たちは自ら人殺しをしてはいけないし、人に殺させてもいけないのです。




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