現代人の法話 
〜 所得格差は社会悪か? 〜

 かつてロシアの大統領ゴルバチョフは「戦後の日本は、一億総中流という資本主義と民主主義の皮を被った社会主義社会である」と語ったことがあります。その言葉通りにわが国は日の丸親方の政府主導の下に、国民は官民一体となって復興や経済成長に精を出し、平和裡にそれを実現した世界で例を見ない国になりました。そこでは一生懸命働いて貯蓄しても、高額所得者には累進課税によって可処分所得が抑えられ、贅沢やリッチさが許されませんでした。これではいくら能カや才能があっても努力する気にならないでしよう。
 ところが「おごる平家久しからず」の例えのように、その繁栄も束の間で福祉制度が充実し、最低生活が保証されると、勤労の精神を忘れて投機に走り、そのツケが回ってバブルがはじけ、国家予算も個人所得も赤字に転落し、債務超過や不渡りで倒産などの憂き目に合うようになりました。最近ではそうした危機を乗り超えて努力した勝ち組と、そうでない負け組の差が拡がり、(もちろん運や不正手段もありえましょう)前者はリッチさを謳歌し、後者からは倒産、失業、犯罪、自殺が増えつつあるのが現状です。
 市場経済を中心とした社会での発展は、需要と供給や競争原理が働くことは自明の理で、格差がまったくない社会は考えられません。問題なのはその格差がいかにして生まれ、それがどの程度許容できるかです。かつて作家の長谷川信さんは「日本人はバケツの中のカニだな。誰かがその中からはい上がろうとすると、皆が寄ってたかって蹴落とそうとするからな」と述べたことがあります。自ら怠けていて相手のリッチさを妬み、格差を「けしからん」と言って、すべての高額所得者を不正乃至不労所得者と一緒くたにして嫉妬し、蹴落とそうとするのは的はずれだと思います。
 もちろん、高額所得者は自分の努力や周囲の良縁に恵まれてかち得たリッチさを一人じめにしないで、その成果を社会に還元すべきです。しかしながら、社会での公平、公正な競争の下で、企業体や個人がその能カや才能を発揮した結果リッチになり、格差が生まれたとしたなら、そのリッチさに嫉妬しケチをつけるどころか、むしろ称賛し、自分もそうなれるよう努力すべきだと思いますがいかがでしょうか。




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