現代人の法話 
〜 安心して死ねるコツ 〜

 今まで私たちは生きる意味や価値を「宗教」に求めて来ましたが、世界各地で宗教や宗派間の対立や紛争が起き、わが国でもオーム真理教事件以来、一般の人々は宗教や宗派に対する不信感や拒否反応を強めていることはご承知の通りです。だからといって、政財界、教育界、医療界が信頼できるかといえぱ、それもあてにならず、自分自身に頼り甲斐があるかといえばそれも不確実で、こうした万事、不透明な世の中にあって、私たちは不安な毎日を送っているのが現状ではないでしょうか。
 では「宗教」の究極の目的は何かといえば、「いかに安心して死ねるか」に尽きると思います。私たちはいかに医療技術が発達して健康で長生きできたところで、いつかは百パーセント死にます。これはどんなに偉く、金持ちになったところで、人間である以上、避けられない運命です。そこで貴方に問うてみたい。貴方は「今、死んでもいいか」と。「今なら、いいよ」とか「何時、死んでも悔いはない」と、自信をもって答えられるなら、貴方は立派な信心家です。ところが、「いや、今じゃ困る」とか「いつでも死ぬのは嫌だ」と駄々をこねるなら、いくら立派そうに見えても木偶坊にすぎません。
 なぜ死ねないのか?「死後、無になるのが怖い」とか「財産に未練がある」とか「家族の後事が心配だ」とかいろいろ理由がありましょう。しかしながら「死」はたとえ病気や事故が原因であろうと、一瞬の間に訪れるもので、自覚するひまはありません。この世のすべての物体には実体がなく、絶えず変化の過程にあり、私たちの肉体も例外ではなく、いくら死にたくなくてもこの世は無常で、私たちは何時かはこの世を去り、自然に還るわけです。この事実を仏教では「色即是空」と言っています。これは「肉体を含め物体は、粒子であり、しかも波長である」とする量子力学の見方にも通じます。禅僧で作家の玄侑宗久さんは生命科学者の柳沢桂子さんとの対話(『文芸春秋』昨十二月号)で、「お経を丸暗記して唱えていると、感覚は鋭敏なのに知覚(表象)はされていない状態に連れていってくれます。〜そこでは好悪の感情も二元論的な判断も一切発動しない。〜そこには、“私”がいないような気がしますし、丸暗記して暗唱している主体さえ“私”ではないと感じるのです」と語っています。
 私たちの意識はいつも一つのことしか考えられません。もし死を考えることが怖いなら、ひとつ騙されたと思って「ナムアミダブツ」と一心不乱にお念仏を唱えるか、読経してみたら如何でしょう。死ぬ瞬間は「アッ」という間であり、念仏や読経している間に、いつのまにか往生しています。これこそが「宗教」(仏教)の真骨頂だと思います。




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