現代人の法話 
〜 他人への依存体質を排す 〜

 わが国が鎖国を解いて明治維新以来、欧米先進諸国に伍して官民一体となって先輩諸氏が努力した結果、短期間の間に近代国家としての体制を整え、軍事や経済大国にのし上がった功績は認めるとしても、その後遺症として敗戦から今日に至って、自分の生きざまに自信や誇りを持てないひよわな国民になってしまった精神的荒廃ぶりには、目にあまるものがあります。
 最近になって、政府や世の識者はこれに危機感を抱き、新憲法の改定や教育制度の改革に向けて上意下達式の国民再生を目指していますが、いくらそうした政治的改善策を講じても、肝心の国民自体が心底からその必要を感じ、日和見的な他者依存性から脱却しないかぎり、絵に描いた餅に終わってしまうことでしょう。特にそれに輪をかけたのが戦後、アメリカから与えられた民主主義で、その趣旨は良しとしても、内実は権利を主張する利己主義が大手を振ってまかり通り、それを補完すべき義務を履行せず、政治家も官僚も国民も、他に依存する無責任体質にまみれたところに問題の核心があるようです。
 その点で、かつての戦争当時の軍閥政治家による軍事的失政と、今日の民主政治家や官僚による社会的失政は軌を一にするものがあります。その最大原因は社会の指導的立場にある政治家や官僚が、何の目的で国民を道連れにしたのかわからないからだと思います。政治家や官僚自身に、行政を司る目的が不明確で、最終的責任もとらず、それを国民が共有することもなく、行方も不明瞭であれば、それに盲従を強いられた国民こそ災難です。
 戦後になって、A級戦犯は国際軍事裁判の席上、お互いが、戦争責任についてなすりあいをしたといい、今日の政治家や官僚が失言や汚職で責任を追求されても、辞職をすれば訴追を免れ、トカゲの尻尾切りで一件落着となるようです。かつて日本の指導者層の戦争責任が論じられた時、松平康昌・元内大臣秘書官長は、こうした茶番劇を「お祭りの神輿」に例えています。すなわち「はじめはあるグルーブが神輿を担いでいたが、ある所まで行くと疲れ、おろしてしまった。放り出しておけず、新たに担ぐ者が出てきたが、ある所でまた神輿をおろしてしまった。次から次へと担ぎ手がかわって、ついに神輿は谷底に落ちてしまったが、責任を誰も取ろうとしない」と。こうした他者依存の無責任体質が国民自体にもある限り、いくら上部構造の体制を改革しても、社会自体が変革されるわけがありません。これを改善するには、国民の誰もがたえず世の中の状況に目を光らせ、的確に判断する良識をもって自立すべきでしょう。




Back