現代人の法話 
〜 誰のための仏教か? 〜

 わが国に仏教が伝来してすでに千五百年あまりになり、歴代の名僧たちの努力により、その土着化に成功したかにみえますが、江戸時代に徳川幕府が施行した国民のすべてを仏教寺院に帰属させる寺請け制度や、明治維新以来わが国の政府がとった政教分離政策により、国民の宗教的精神が骨抜きにされ、聖職者の特異性が失われて来たことは否めません。
 一方、仏教界に目を転じてみると、明治維新以来、文明開化の波に洗われて、国を挙げてて近代化を押し進めてきた風潮に呼応するかのように、西洋に留学して近代仏教学の洗礼を受けた学僧たちは、葬式仏教と揶揄されがちな旧来の宗門の伝統的制度に危機感を抱き、開祖・釈迦の教説に基づいた原始仏教に立ち返ることを提唱した。しかしながらその学問的アプローチに立脚した仏教は民衆の生活になじまず、象牙の塔の中で弄ばされるに留まって今日に至っています。どちらかというと、今までの国民の宗教(とりわけ仏教)に対する受け止め方は、宗教家は民衆を目下に、仏教学者は傍目に、そして民衆は宗教家を目上に眺めて来たきらいがあったようです。その結果、こうした分裂状態の間隙を縫って民心を掴んだのが、新宗教やオーム真理教のような疑似宗教ではなかったでしょうか。
 近代化にともなう職業の分業化によって、政治は自治体や議員に、経済産業は企業や会社員に、医療は病院や医師に、教育は学校や教師に、宗教は寺社や宗教家などに委託され、仏教は寺院や僧侶の葬祭儀礼によって主にその命脈を保って来たのが実情のようです。しかしながらこうしたタテ割の独占企業化は、どちらかというと競争原理や緊張感を弛緩させて腐敗堕落を生みやすく、最近ではその歪みや不祥事が暴露され、司直によって糾弾されていることは既にご承知の通りです。だからといって私たちはただ「それみたことか」と彼らに罵声を投げかけて溜飲を下げるだけで事が済むわけでなく、その責任の一端は私たちの無関心や無知ぶりにあることを知らなければならないようです。




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