現代人の法話 
〜 いつもゼロから出発 〜

 私たちは普通、今日という日は昨日からの連続でその積み重ねであると考えがちですが、実はそうではなく、毎日がゼロからの出発であるのです。
 「そんなことはない、自分の身体や手足は去年も今年も同じところにあり、昨日の私と今日の私と、どこも違いはないじゃないか」と反論されるかもしれません。が、もし同じだったら肉体や精神の衰えもなく、いつまでも若さを保っていられるはずです。
 「私」という存在自体を固定化し、その権利とか義務を主張するのは、西洋から伝わった近代主義的発想で、神から人間に与えられた特権であるとして、「自我」とか「個性」がいつまでもつきまとうと考えられていますが、周囲の条件が変われば、「私」の存在も変わるものです。
 たとえぱ、小指を切っても自分は変わりませんが、脳を切ったら自分も変わります。自分の肉体の部分である紬胞や毛髪も、二十年も経てば完全に別物と人れ代わります。したがって自分らしさを保つには、過去の自分に固執せず、絶えず「日々新た」に再生しなければならないでしょう。
 仏教で説く「諸行無常」とは、この世のすべての存在が絶えず変化の過程にあり、私たち自身も例外ではないことを示しています。したがって自己満足し安閑としていたなら、即刻、退歩し、堕落するばかりです。
 今年、百歳になってもなお矍鑷(かくしゃく)としている禅僧・松原泰道師は「生涯現役・臨終定年」をモットーとし、執筆に余念がありません。私たちもそうありたいものです。信仰するとは人生の最後の一瞬まで、自分のこの世でなすべきことに専念し「進行」することで、イザその時が来た暁には、これまで生かされて頂いたことに感謝して、従容として死路の旅に出ることではないでしょうか。




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