現代人の法話 
〜 仏教をわかりやすく 〜

 わが国の仏教界では、従来、自分たちの宗派内で使う伝統的な用語を金科玉条に用いて来ましたが、一般人には理解しがたいところから、識者の間で分かりやすい表現で伝えようとする機運が高まって来ました。仏典や仏教術語の現代語訳の試みがそれです。
 たとえぱ真宗関係の『歎異抄』の一説である「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」を、哲学者の梅原猛氏は「善人ですら極楽往生へ行くことができる」とし、仏教学者の山崎龍明氏は「善人(できのよい人)も阿弥陀仏の教えによって救われていくことができる」とし、親鸞仏教センターでは「善人でさえも、真実の自己になることができる。まして悪人はいうまでもない」などと意訳しています。しかしながらこうした意訳を読んで、はたして一般人はその意味するところをよく理解できるか疑問です。
 たしかにこれらは原文に忠実ですが、率直に言って門外漢の一般人にはピンと来ないのではないでしょうか。ではどういう訳ならと尋ねられれば、私としては、「自称まともな人(善人)よりも、自分の愚かさを自覚しつつ努力する人(悪人)の方がより救われる」と訳したほうがピンとくるような気がします。この大胆な私訳が原文を曲解しているようでしたら御免なさい。
 また、よく誤解されている言葉に「他力本願」があり、一般人は「他人頼み」と解釈し勝ちです。しかしながら、本来はそうではなく「自分の力を超えた自然の摂理(はたらき)の下で私たちは生かされ生きてゆくこと」だと思います。たとえぱ自分の意思で自分の体内に働く呼吸や血液を止められますか。傷ついた肉体を自分の意思で直すことができますか。できないでしょう。すなわち「他力本願」を意訳すれぱ「自然に則る」ことです。いくら自然の摂理に逆らって、独力で病気を直したり運命を変えようとしても不可能で、自然の摂理や周囲の条件、自分の意思が統合されて、はじめて病気が回復し、運命が改善されるのだと思います。
 私たちの人生の価値は、浄土宗の元祖・法然上人が「生けらば念仏の功つもり、死なば浄土に参りなん」と述べているように、もともと自然の摂理に基づき、それに寄り添って生きることで、その間、自然から賜った自分のいのちを大切にして一生懸命働かせて頂き、いざ亡くなるときにはその肉体を自然にお返しすることではないでしょうか。




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