現代人の法話 
〜 専門分化の弊害を正す 〜

 今日の医療技術の進歩はめざましいものがあり、たいていの病院では朝早くから患者がつめかけ、長く待たされた挙げ句、診察や治療時間はたった四、五分という短さです。待合室では治る病気も院内感染でかえって悪くなる場合もありえ、これでは、何のための通院かわかりません。
 もちろん病気は医師が治すのではなく、患者自身が治すものですが、かつてはホームドクターなどが患者の身体全体にわたってチェックし、適切な指示を下し、患者も安心して養生に専念したものでした。ところが今日ではそうではなさそうで、医学知識や医療技術の日進月歩の結果、専門分化して担当医師が診察に携わり、病気によっては一体どの科へ行ったらよいのか迷ってしまいます。
 また、今日のように多数の患者を診察する病院では、医師はいちいち丹念に患者を診察するゆとりがなく、医師と患者との間の心の交流が疎遠にならざるをえない状態です。病院側は、効率よく機械的に処理せざるをえないことは理解できますが、医療とは患者の全人的な蘇生にあるはずで、いったいこれでは、患部の治療をして快癒したのも束の間で、肝心の生命が失われることもあり、医療の目的とはいったい何なのか疑問に思うことがあります。
 こうした専門分化は医療界のみならず、あらゆる分野に拡がっています。たとえば、かつては家一軒建てるにも、大工の棟梁が采配を振るっていましたが、最近では、設計、基礎、組み立て、屋根瓦、内装、電工、家具などの職人がそれぞれ自分のやるべき仕事を分業化しています。学問の分野でも学者の研究は専門分化され、脱境界的学問は軽蔑視されがちです。宗教の世界でも同様で、ある特定の宗教を信じたり、その教団に深くコミットすると、「我が仏のみ尊し」で、そこでの教条に基づいた専門用語や言行にならされ、その他の宗教や教団についての総合的理解や協調性が疎んじられがちです。
 われわれはとかく自分の携わる仕事はよく知っていても、他分野との関連が分からず、専門バカになってしまうようです。かつてドイツの言語学者力−ル・フンボルトは、「自分の言語しか知らないものは、言語そのものを知らないのに等しい」と述べたことがありますが、こうした弊害を是正するためにも、自分を自分以外なものと対峙させることによって、自分の立場を客観的に正しく認識することができるのではないでしょうか。




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