現代人の法話 
〜 好きこそ物の上手なれ 〜

 かつての封建的農耕社会にあっては、手工業的な労働力でモノを生産し、その生産者を半強制的に使役する家柄や肩書や権力のある人が畏敬され、その所得を搾取して来ました。また、十六世紀以降の近代的工業社会においては、労働力と生産手段を分離し、生産者や企業家は人間の持つ労働力よりも機械を重視し、同一規格のモノを大量に製造して所得を拡大して来ました。
 特に十八世紀末からの内燃機関の発明によって、生産手段をより近代的に大型化、大量化、高速化し、そこで得たモノを所得することが「豊かさ」の証として特に囃され、そこで働く労働者は機械を駆使するのではなく、機械に駆使されて、同じ工程を単調に休みなく繰り返すことが要求され、その労働の対価として賃金が与えられて来ました。
 また消費者自身も、そこで販売されたものが単一で、廉価であるところから大衆化し、それはそれなりによい面もありますが、没個性的で味気ないものになりがちです。こうした傾向は二十世紀に入ってから顕著で、戦前の米国から始まった自動車などの大量生産方式や、戦後のファーストフードや大型店舗の普及など、私たちの身近なところにも進出し、この傾向は一向に収まりそうもありません。
 私たちは仕事にせよ趣味にせよ、自分に納得がゆき好きなことなら、手間ヒマかけても疲れを知らず、成されたものも良く仕上がるものです。その上、その成果に自信と誇りを抱いて周囲に自慢したがるものです。すなわち、今までの近代資本主義社会では、動産、不動産の多寡が幸福度のメルクマークであったものが、今日のグローバル化社会では、モノを作ったり持つことよりも、使って満足感をうることを重視しつつあります。
 ただしそうした個人的成果を独占して満足感を味わうだけでは、ほんとうにしあわせになったとは言えないようです。私たちはちょうど女流詩人・金子みすずさんが、「みんな違ってみんないい」と詠んだように、それぞれが心の交流を密にし、お互いの得た満足感を分かち合って、はじめて能力や所得の格差を是正し、それぞれが精神的なしあわせを享受できるのではないでしょうか。




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