現代人の法話 
〜 自分に宿題を課す 〜

 皆さんはおそらく日常の生活でなすべきことが山とあり、ヒマを持て余すことなど薬にしたくてもないことと思いますが、もしそうではなくて、仕事も職も持ち合わせず、毎日ブラブラしているとしたなら、何か自分にやれそうなことにチャレンジしてみたらいかがでしょうか。「果報は寝て待て」ではなく、「果報は何かをなし遂げてこそ得られる」と思うからです。
 作家の五木寛之氏はかつて、「人生に目的があるのか、私はないと思う。何十年も考え続けてきた末に、そう思うようになった。しかし、やはり人生に目的をもちたい、と思うのが自然な人間の心のはたらきだろう」と述べています。私も同感で、人生にはたとえ特別な意図や目的がなくても、自分がヒマを持て余して怠けがちになるところから、何か具体的な目標をもったなら、生きる張り合いが生まれるのではないかと考えるようになったからです。そこで、住職就任の四十年前に読者とのこころの交流の一助になれぱと、毎月自分の日頃の考えを綴る『寺報』を発行することを決心しました。
 ところが、そうしたけなげな気持ちとは裏腹に、寺の行事を日記代わりに記録したり、日頃、思いついたことを書きとどめるべく、一、二年と続けて行くうちに次第にマンネリ化し、書くタネも途切れがちになり、途中で何度か「もう止めようか」と思ったこともありました。しかしながら、読者の方々が期待して発行を待っていると思うと、折角やり始めたことを中止するわけにもいかず、これが自分に課せられた宿題(目的)だと言い聞かせて気持ちを取り直し、どうにか今日まで無事に毎月、発行を続けることができました。そうしているうちに次第に知識や情報を集めて編集する興味が沸き、不思議なことに心身の健康にも役立つことに気づき、いつのまにか五百十五号にもなりました。これも一重に仏天の加護と読者の方々の支援の賜物であると考えられ、感謝の気持ちで一杯です。




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