現代人の法話 
〜 はかなく、むなしく、哀しい人生 〜

 最近、有名タレント・山城新伍さんや大原麗子さんの孤独死や、酒井法子さんや押尾学さんの不祥事など、相次いだことはご承知の通りです。そのマスコミの寵児としてもてはやされた現役時代の華やかな人生とは裏腹に、一時期、その去就で世間を賑わせても、いつの間にか時の経過と共に忘却の彼方に葬り去られてしまうのが世の常です。人生とは何と、はかなく、むなしく、哀しいものなのでしょうか。
 私たちの人生も同様です。ただ、彼(女)らとは異なり、知名度がなく、世間の表舞台で踊らないだけ、誰にも見とがめられず、ただひっそりと生き、ひっそりとこの世を去ってゆくだけで、人間は誰しも同じ運命を辿るのです。そして、死後、数日過ぎれば足早に葬儀や告別式が営まれて関係者に見送られ、「ほとけ」としてあの世に生きる永遠の存在となるのです。
 中には、精神的にも経済的にも、こうした手間ヒマかけた一連の個人的、社会的通過儀礼の面倒くささを避けるために、死亡の事実を関係者に知らせず、儀式や告別式もせずに荼毘にふして一巻の終わりとしたりします。これに輪をかけて、秋川雅史さんの歌のように「死者は千の風になって、お墓になんかいません」とはやり立てるものですから、墓も立てず、追善の法事もせず、何事もなかったかのように平常の生活に戻る人がいます。こうして祈る対象物がなければ、いったいどうして故人を追憶するのでしょうか。人の死の軽視は、そのまま生の軽視につながることに気づかないようです。
 世知辛い今日の世の中では、最早、人を愛したり、愛されたりするのは無益なことなのでしょうか。マザー・テレサは「愛の反対は無関心である」と述べたことがありますが、一生の間に愛する人もおらず、何事も利害関係の損得で割り切る孤独な人生とは何と、はかなく、むなしく、哀しいものなのでしょう。




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