現代人の法話 
〜 何事もほどほどに 〜

 私たちはとかく自分の好きなことなら「やめられない、止まらない」でハメを外し、気づいたときには後の祭りで、暴飲暴食して二日酔いや胃酸過多で薬の厄介になったり、働きすぎで過労で倒れて健康を害することがしばしばです。また、勝気で気位の高い自己本位の人にとっては、他を無視してまでも、自らのなすことにとらわれて、猪突猛進しがちですが、周囲から嫌がられるので要注意です。誰しも自己満足のために働くことは当然のことながら、周囲を喜ばせることによって自分も喜べることが究極的な喜びになるのではないでしょうか。人間には自らの体力、知力、気力に限界があり、能力以上のことをすると危険信号が灯り、脱線転覆してベソをかくことになります。それにいち早く気づいてブレーキがかかればよいのですが、それができないのが人間の浅知恵というものでしょう。
 かつて釈尊は在世当時、弟子ソーナに対して次のような言葉を述べたことがあったといいます。(『四+二章経』)彼は一生懸命修行に励んでいましたがその甲斐もなく、いっそのこと止めようかと思って師に申し出たところ、師から「君は在家の頃、何を得意としていたのか」と尋ねられ「琴を弾いていました」と答えたという。師は「その時、弦が緩すぎるとどうなるか」と問うので「鳴りません」と答えたところ、師は「弦が締まり過ぎたらどうなるか」と問うので「やはり鳴りません」と答えたという。そこで師は「そうであろう、弦が緩すぎても締まりすぎてもよく鳴らないものだ。修行には怠惰でも緊張してもいずれもよくないのだ」と論しました。ここで師は、人生もちょうど「過ぎたるは及ばざるがごとし」で、中道を歩むことを勧めたのだと思います。この「はどほど」という「いい案配さ」が分かるには各自の経験がものを言い、それを他に伝えることは至難の業ですが、何時かは誰もが失敗や試行錯誤を繰り返しながら辿る道でもあります。それを知らずに私たちは何と「享楽を事として感官を守らず、飲食に節度なく、怠惰にして努力せざる者は魔王の彼を征服すること、風の弱き樹におけるがごとし」(『法句経』)で、痛い目に遭うことでしょう。そうならないためにも、何事においても、自らの欲望を自らコントロールすることが大切でしょう。





Back