現代人の法話 
〜 儀式は、なぜあるのか? 〜

 

皆様のご支援ご協力をいただき、無事、盛大に晋山式を勤めさせていただき、心より御礼申し上げます。

 

さて今回の晋山式をはじめ、人生には様々な儀式・通過儀礼があるが、最近はそれを軽視する風潮がある。曰く「意義が感じられない」「お金と時間が大変だから」…確かにそういう部分もあるかもしれないが、私達のご先祖が長年、脈々と受け継いで来たからには必ず深い意味があるはずであり、私なりにその意味を考えてみた。

その答えは竹≠ナある。竹は天に向かって真っすぐに成長していく。それはその構造が筒の部分と節の部分が交互に存在するからで、もし節の部分が無く筒の部分だけだったら竹は自分の重みで倒れてしまうそうだ。竹は節を基礎に筒を真っ直ぐ伸ばす事を繰り返し、真っ直ぐに成長していくのである。人生も同じである。節目と言う言葉があるが、人はその儀式・通過儀礼すなわち節目を通じて、これまでを振り返り、決意も新たにし進むのである。竹の例えの通り、節すなわち節目が無ければ横に逸れてしまう。節目を新しい起点に、それぞれの目標、目的を再確認し、真っ直ぐ進んでいく事が出来るのである。

お寺での儀式というとご法事があるが、これも大切な故人様のご供養と共に、その読経の中で故人様から戴いた数々のご恩・思い出、ご教訓などを振り返り、あらためて故人様にこれからの精進とご加護を念じる場であり、その意味では人生の節目として、意義あるものとして受けとめていただきたい。

今回の晋山式は、私にとって大きな節目であった。振り返れば、不思議なご縁に導かれ僧侶となり、多くの檀信徒の皆様、ご縁のある僧侶方に支えられている事。それと同時に約百九十有余年の歴史、歴代住職方の思いを受け継ぐ重責をひしひしと感じ、さらにはお念仏の御教えを柱に共に仏教の教えによって心の豊かさ、安寧に寄与出来るよう決意を新たにしている。




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