現代人の法話 
〜 法事の意義を竹≠ノ学ぶ 〜

  

最近、栃木市出身の文豪・山本有三先生の著作「竹」を読み、また他の何冊かの本からも竹≠ノついて、いくつかの有意義な話に出会った。

山本有三先生は竹≠フすうっと、天を目指して真っ直ぐに立っている形が好きだそうだ。その姿にただ1つのものだけを信じて、生きてゆこうとしている心を感じるとの事であり、また竹が土の下で強い根を張り、つながっている姿に、私たち日本人みんなが一緒に手をしっかりにぎり合って共に協力するお手本を見るからだと語っておられる。そんな訳で有三先生のお宅の庭や入口には竹が植えられていたそうである。

昔から竹≠題材とした絵や写真は多い。その竹をよく見ると筒状の幹の部分と節の部分から成る。竹は幹と節が交互に連なり真っ直ぐ伸びているのである。ある本には、もし節が無く、幹だけであれば、(単なるホース状の筒になる)竹は自分自身の重みに耐えきれず曲がり倒れてしまい、天に向かって伸びる事が出来ないと書いてあった。また多少、幹の部分が曲がってしまっても節の部分で上手く調整をして天に向かって真っ直ぐ伸びていくそうである。

私はそこに人生を見る。すなわち幹の部分がいわゆる日常で、節の部分は節目という言葉の様に、入学式や卒業式、成人式や結婚式などの様々な通過儀礼がこれに当たる。なぜそれらの通過儀礼があるかといえば、その時にこれまでの生き方を振り返り、再び自分の目標に向かって真っ直ぐな努力を誓い、また修正するためだと考える。あたかも竹の節の役割の様に。

実はお寺で行われるご法事も同様に人生の節目であると思う。すなわち、その読経の時間、あらためて故人様が自分に遺してくださった教訓や思い出を振り返り、それらを基に、生き方を修正し、それぞれの目標に向かって、あたかも竹が天に向かって真っ直ぐ伸びるかのように歩んでいく契機としていただきたい。もちろんご法事の第一義は故人のご供養であるが、そうする事により故人様がそれぞれ心の中で生き続ける事になり、またお浄土から見守って下さる故人様に安心していただく事にもつながるからである。

 

共にお念仏という根でつながり、竹の様にそれぞれが真っ直ぐに歩んでいきたい。




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