現代人の法話 
〜 「子供に迷惑を...」 〜

ここ数年終活(しゅうかつ)≠ェ注目されている。人生の終(つい)のための活動で、葬儀やお墓の生前契約などである。ひと昔前ならば縁起でもないとなる所だが、自分の死を見据(みす)えてどう生きるのか、仏教的にも大切な事だと感じる。

その際キーワードとして「子供(あるいは周囲)に迷惑をかけたくない」という言葉がある。すなわち予(あらかじ)め準備しておいた終活のレールを進めばご葬儀で心理的、経済的な負担≒迷惑をかけないとするものである。しかし私たちは誰にも迷惑をかけずにこの世を旅立っていく事が出来るのだろうか。そもそも「生きる」こと自体が「どなたかのお世話≒迷惑になる」という事で、お互い様であり、過度(かど)な遠慮は不要であろう。

また「親の葬儀を 出して一人前」という言葉があるように、ご葬儀の喪主(もしゅ)をつとめると本当に色々に迷い悩む事も多いが、ある意味貴重な体験となる。親は子供を思いやるあまり、先回りしてすべてを準備する、それも愛情であるが、あえて経験を積ませ、成長を促(うなが)すというのも愛情であろう。そして子はその体験の中で、親も体験したであろう苦労を感じ、親の存在の大きさを知るのである。

ある親は子達を思う気持ちから葬儀は近親者のみの簡素なもので良いと常日頃言っていた。そしていざその時が来た時、子は周囲と相談し大勢の会葬者がご弔問(ちょうもん)に訪れる葬儀が行われた。最後に子は私(住職)に言った「皆さんに来ていただいて本当に良かった。喪主は初めてで大変でしたが、父が大勢の方に慕(した)われ、また支えられていることが良く分かりました。父の言う事を聞かなかったのはすまなかったけれど…」と。




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