現代人の法話 
〜 「仏の救い〜私の心を見つめた時」 〜

ある先輩僧侶にこんな質問をされた「自分の大切な人が不治の病になってしまった時、どんなお話をしますか」と。考えたくない話だが、あり得る話。昔なら隠し通す事も出来たが、今は本人告知が基本、またインターネットで自分の症状や薬などから容易に詳細な情報が得られるから隠し通せるものでもない。私が思ったのは、こんな時、一時的ななぐさめや「頑張ればなんとかなる、希望を捨てずに頑張ろう」と本当に言えるだろうかという事。日に日に衰弱していく姿を見ていたら…、逆に自分が言われるが立場だったら「何をどうこれ以上頑張ったらいいんだ」と反発すらするかもしれない。

ここまで来たら「死んだらどうなるのか?」そこに目を向けない訳にはいかない。日々僧侶として葬儀を執り行い、人様の死に接しているにもかかわらず取り乱してしまうかもしれない。しかし正直に「阿弥陀様のお浄土に生れたら、先に逝った懐かしい人達にも逢える。何よりも必ず自分もそこに行くから待っていてほしい」と言いたいと思う。「自分達がしっかり生きていく姿を見守っていてくれ。面白いお土産話も沢山持っていくから、一足先に行って待っていてくれ」と伝えたい。そして「この世でしたい事があれば全力でサポートするから、何でも言ってくれ、一緒にやってみよう」とも。

そこにあるのは安らかなお浄土へ生まれる事、そしてさらにはお浄土でご縁ある人々と再会でき、自分ともいつかはまた会えるというー阿弥陀様の教え「倶会一処」である。これを信じ切るしかない。という事をあらためて思う。今は仮定の話だが、いつ現実になるかもしれない。死といういつかは避けられない、乗り越えられない壁にぶつかった時、私の心を正直に見つめれば、人知を超えた力〜仏の救い≠ェ心底必要だと実感するのです。

(本文は先日の増上寺大殿説教の一部を再構成したものです)




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