現代人の法話 
〜 「信じれば、見えてくる…」 〜

 宗教を信じるという事、信心というのはどんな心持ちを言うのだろうか?
 昔の私は、実を言えば宗教〜仏教をあまり信じていなかった。なにか怪しげで、心が弱い人が神仏にすがるイメージで見ていたのだ。しかし僧侶となるべく仏教そして阿弥陀様の教えを学び、さらに死別の悲しみにくれる方々と間近に接した時、大きくその考えは変った。
 「阿弥陀様を信じるのではない。阿弥陀様を信じなければ、この私は生きる事が出来ない」と思ったのだ。亡き方が安らかな仏の世界極楽浄土≠ノ生まれられなければ私達の世界は絶望的ですらある。亡き人がお浄土から見守って下さらなければ何を支えに生きていくべきなのか。そもそも私は死んだらどこへ逝くのか。人生は良い事ばかりではない。時に耐えがたい悲しみ・苦難もある。そんな時に心の支え、希望となり根源的な疑問にもお答え下さるのが阿弥陀様の極楽浄土の教えである。
 信じる・信じない≠ナはない。未だ限界がある科学的見地や合理主義、ニヒリズムを投げ捨てて、思い切って阿弥陀様の世界に飛び込むのである。理屈では無い、心の深い所にある死に対する疑問や生きる中での様々な不安を阿弥陀様にお任せするのである。私が持っている科学的知識や知見を一切捨てて、思い切って無条件に阿弥陀様を信じてみる′セ葉は悪いが阿弥陀様の教えに賭ける≠フである。そうすれば必ず希望、心の依りどころ・支えが出来、前向きな思考となり不思議と幸運も舞い込んでくる。それが感謝の心となり、更なる善い心持ちにつながるという好循環が生まれて来る。
 阿弥陀様を信じるとは、その教えを信じるのはもちろん、実生活ではお念仏≠お称えする事である。阿弥陀様を信じ、お念仏を称え、信じる事が出来た人だけが見えてくる心の安らぎ、希望をぜひ手にしていただきたい。




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