現代人の法話
〜 「比較は喜びを奪う」 〜
人は誰しも他人と比べる事をやめられません。容姿や学歴、仕事、趣味や家庭環境など自分の心の内では勿論、他人との会話でも多く話題に上がりますし、昨今はSNSで近況を発信する人もおり、それらを見聞きしては自分と比べ「羨(うらや)ましいなぁ」「悔(くや)しいなぁ」「なんで私だけが…」と劣等感や嫉妬(しっと)に悩まされる人も多いことでしょう。これはヒトが社会的動物で、他人と関わる集団生活の中では避けられない事で、集団の秩序維持や協調という点や、また向上心という点でも必要な事です。しかしあまりにこれらにとらわれ過ぎると心身に不調をきたし、仏教の目指す心の安らぎ≠ニは縁遠くなってしまいます。
お釈迦様はこの比較する心を慢(まん)≠ニ呼び、劣等感だけでなく、自分が勝(まさ)っているという優越感も厳しく戒めます。なぜならば慢≠ノとらわれている間は、己の心が他人に振り回されている状態だからです。例えば自身が大変気に入った愛車(ブランド品でもよい)を手に入れ、喜び、満足したとしても、隣の家がさらに素晴らしい高級車(ブランド品)を手に入れれば、心はもやもや、喜びは一転、不満の心になる事もあります。お気付きの様にこれらの例にはキリがなく、人と比べる事は、ストレスを生み心の安らぎ≠ニは程遠い心境を生み出すのです。
これをアメリカ元大統領のS・ルーズベルトは「比較は喜びを奪う」と指摘し、お釈迦様は「他人の過失を見るなかれ、他人のした事としなかった事を見るな。ただ自分のした事としなかった事だけを見よ」と諭(さと)されました。文中の過失は成功でも成立する訓戒でもありましょう。私達が唯一、比較していい存在は「過去の私」だけです。私達がこれから越えていかなければならない存在は「今の私」であり、その為の努力が心の安らぎ≠生み出すのです。