現代人の法話
〜 「阿弥陀仏、極楽浄土は、ファンタジーなのか?」 〜
ここ数ヶ月、毎朝の読経の中で現代語訳された『浄土三部経』(浄土宗出版)を少しづつ読み進め、都合2回読了できました。浄土三部経には阿弥陀仏とその西方極楽浄土の情景などがこと細かに説かれていますが、そこには天文学的なスケールで極楽の美しい世界の姿が詳細に描かれており、あまりの途方の無さに僧侶の私でも時にファンタジーかお伽噺(とぎばなし)の様に思ってしまうこともあります。
またご葬儀やご法事でその極楽浄土についてお話しする機会もありますが、科学化、合理的思考の進んだ現代において、特に若い方にお浄土の情景を説くことは、私がファンタジーやお伽噺を語っているのではないかと思われる恐れすら感じ、逆に不信感をもたれないかと、実は内心とても勇気がいる事となっています。
では、阿弥陀仏、極楽浄土は、ファンタジーなのでしょうか?確かに誰も行った事がない、見た事もない、帰って来た人もいない極楽浄土ですが、私自身は確実に存在すると信じています。
なぜならば、私達はお盆やお彼岸、お命日等にお墓、お仏壇に手を合わせした時、「おかげ様で元気でやっています。どうぞ安らかにお過ごしいただき、皆をお守りください」等と亡き方に語りかけておられる方が多いと思います。また大切な方を亡くされた時は心の底から、その方の来世での幸せ、安寧を祈る事と思います。もし来世、浄土宗では極楽浄土と呼びますが、それ無かったとしたら私達は一体どこへ逝った誰に向かって呼び掛けているのでしょうか?亡き方が美しく安らかな世界に往かれ、懐かしい方々と再会をされる。そしてそこで新しい仏様になって私達を見守って下さるーそんな極楽浄土があるからこそ大切な方を失っても前を向いて生きていこうと思えて来るのではないでしょうか?
ノーベル賞受賞の物理学者であり哲学者でもあったアインシュタイン博士の言葉に「人生には二通りの生き方がある。ひとつは奇跡など何も起こらないと思って生きること。もうひとつはあらゆるものが奇跡だと思って生きること」というものがあります。奇跡を来世、極楽浄土に置き換えてみると、来世なんて無いと思って生きるのと、来世・極楽浄土は有ると思って生きるのとでは、その人の生き方、考え方、行いが自ずと違ってくると思うのです。来世が、阿弥陀様の極楽浄土があると思って生きる方は、その安らかな来世に迎え入れられるよう善行に励み節度を保ち、またご先祖様や大切な方に見守られ自然と心が良き方向に導かれ、充実した人生が送れるものでありましょう。もし来世・極楽浄土が無いと思って生きれば、そこには生きる中での規範も、また亡き方と心を通わせるという希望も失われてしまうのです。
そして何よりも私自身が阿弥陀様の教えに心を救われています。今後とも自信をもって極楽浄土の教えを説いて参りたいと思います。