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私が臍帯血移植にたどりつくまで


「無いの。あなたに合う骨髄が、どうしても無いの。」
そう言った途端、気丈な妻の両眼から、大粒の涙が零れ落ちた。
 急性リンパ性白血病と、医師に告知されて闘病生活に入ってから、約8ヶ月、血縁者はもちろん、国内の骨髄バンクからも骨髄のドナーをさがしたが、とうとう私のHLA(白血球の型のこと)に適合する人が見つからなかった。
 「それではこれが最後の手段だ。」と、骨髄の国際バンクにまで登録して、一日千秋の思いで待っていた結果がこれである。もう、万事休だった。病室のカーテンの中で夫婦で泣いた。
 これから、いったいどうすればよいのだろう。私の白血病の型では、骨髄移植をしなければ、今後長くは生きられない。私はまだ死ぬわけにはいかないのだ。かわいいひとり息子は、ようやく物心がついてきたばかりである。息子の写真を見ては、涙が止まらなかった。
 「これは、死ぬかな?」消灯後の暗い天井を見ながら、思わずつぶやいた。私は自分のすぐ傍に死神の気配を感じていた。
 妻はまだ、諦めてはいなかった。必死であちこちをあたり、臍帯血移植の情報を見つけてきてくれた。骨髄を移植するように、やはり私のような白血病の治療に使えるのだと言う。「これまでは、主に体重の少ない子供に対しておこなわれてきたが、最近では成人にたいしても実績がある」、と言うのだ。
 半信半疑の私はその時入院していた(A病院・仮名)の移植部の医師に相談してみることにした。
 「臍帯血移植は、成人にはとても無理ですよ。よほど小柄な女性ならともかく、あなたのような体重の重い成人では絶対に不可能です。」あっさり否定された。私は趣味でボディビルをやっていたので、上背の割に体重があるほうだった。そのころでも70キロ以上あった。それがとんだネックになったのだ。
 全国の医師が電話で患者の相談にのってくれるという、セカンドオピニオンの窓口にも電話をかけてみたが、何人あたってみても、賛成してくれる医師はいなかった。
 「臍帯血移植は成人にはできない。」私はそれが当時の医学界のきわめて間違いのない、常識であることを知った。
 私はこれからどうしたら良いのだろうか。骨髄バンクでは、HLAの型6座のうち、ひとつ違いの一座不一致の骨髄まで間口をひろげて検索してくれたが、それでもドナーは見つからない。仕方がないのでこれから二座不一致の検索をしてみるという。それとて、必ず見つかるという保障は無い。また、仮に見つかったとしても、そのドナーさんが必ず来てくれるという保障も無い。もし、運良く来てくれるとしても、いつになるのであろう。
 私はすでに入院8ヶ月である。おまけに、これ以上つづけての薬物治療は身体が持たないとのことで、(A病院)を一旦退院することになった。
 
 「これから、どうなるのだろう?」私はひさしぶりに自宅にもどってきて嬉しくもあったが、これから先がまったく見通しのたたない状況であることにかわりはなかった。
 そのころ妻が、「東京の港区にある、(T病院)が成人の臍帯血移植を成功させているらしい。」という情報を仕入れてきた。
 「本当だろうか?」私は(T病院)に実際に出向いて、この目でたしかめてみることにした。それ以外に、そのときの私には道はなかった。
 私と妻は列車に乗り、東京の(T病院)まででかけた。片道で3時間かかる。列車を降りて、とある駅の階段の前で私は呆然とした。エスカレーターの無いその長い階段は、健康ではなくなった私にとって、さながら断崖絶壁だった。妻が付き添ってくれていなければ、ひとりでは登り降りできなかったに違いない。そんな苦労をしながら、私はやっとの思いで目的の病院にたどりついた。
 
 予約もなしの突然の訪問だった。それにもかかわらず対応してくれた医師は私の質問に丁寧に答えてくれた。そして、「成人でも臍帯血移植は可能です。現実に先日は、体重が80キロの患者さんにも移植しています。臍帯血移植は決して骨髄移植に劣るものではありません。」と言った。
 それから、私のHLAの型をたずね、パソコンで私に使えそうな臍帯血が臍帯血バンクにあるのかをその場で捜してくれた。
 はたして、私の移植に使えそうな臍帯血の候補が三つ、見つかった。あいかわらず、私のHLAと完全に同じというものは無かったが、骨髄と違って、一座ないし二座くらいまでHLAの型が違っていても充分移植に使えるそうである。
 
 帰りの列車の中で私は迷っていた。「このまま自分に合う骨髄のドナーが現れるのを待っているべきだろうか。でも、それはあまり可能性があるとは思えない。第一、もうこれ以上、移植の時期を延ばすのは別の意味で危険だと思う。白血病が進行してしまうかもしれない。余病をおこすかもしれない。これ以上の薬物療法に身体が耐えられないかもしれない。物事には何にでも時期というものがあるはずである。」そう思ったとき、私の心は決まった。
 「よし、臍帯血移植にかけてみよう。」私はそれまでお世話になっていた(A病院)から(T病院)に移ることにした。
 
 (T病院)に移ってから約3ヶ月後、私はやっと移植の日を迎えた。移植前の強力な前処置のため、私は完全にのびてしまった。
 それでも移植時のことはよくおぼえている。先生方が数人で私のはいっている無菌室のとなりで忙しそうに移植のための準備をしている様子がよくみえる。
 無菌室は、透明なガラスとビニールで仕切られているから、その表情までもがよくわかる。皆、真剣だった。張り詰めた緊張感が伝わってくる。
 私はその様子を見て患者として大変ありがたく思った。これなら自分の命を預けても本望だ、とも思った。準備の時間は、一時間程度だったと記憶している。

 いよいよ移植開始となった。臍帯血の入っているパックから、注射器で臍帯血が吸い出された。それは、実にあざやかな真紅の(血液)だった。
 先生のひとりが、それを私の胸の血管にまで入っているカテーテルの先の接続口から注入した。それは、ほんの短い時間で終わってしまった。せいぜい5分間くらいだったろう。
 白血病の告知をうけて私がこの日にたどりつくまで、すでに一年がすぎていた。その代償を思えば、5分間はあまりに短い。呆気なさ過ぎる。私は、なんだか笑いがこみあげてきた。
 私に移植された臍帯血の量は、それほど大きくはない注射器で一本きりだった。私は思わず、先生たちに「足りますか?」と冗談まじりにたずねると、笑顔で「足ります。」と答えてくれた。私は生死をかけた駆け引きの真っ只中にいるというのに、なぜかすこしも緊張していなかった。むしろそれよりも、私はある充実感を感じていた。
 それは今日までのこの一年間、私は自分にできる最善をつくしたと考えていたからだった。
 
 移植後は痛みや発熱にずいぶん苦しめられたが、もう一度、妻や息子と一緒に暮らせる日がくることを信じて頑張った。余談だが、(T病院)の先生方や看護婦のみなさんをはじめ院内のスタッフの方々にはずいぶん励ましていただいた。白血病の治療は長く、そして辛い。だから、どうしても精神的に駄目になりそうになる。
 私の容態が少しずつ良くなってくると、先生方や、看護婦さん、スタッフの方々が皆、わがことのように喜んでくれた。私はいまでも感謝している。
 
 私は約3週間ほどで無菌室を出ることができた。ガラスの個室から開放されて大部屋に移り、久しぶりに人と人が触れ合える世界に戻ってきたときは本当に嬉しかった。
 私の退院は移植をうけてから約4ヶ月後だった。白血病であることを(A病院)で告知され、(T病院)での入院生活を加えると、全部で1年4ヶ月も病院にいたことになる。我ながら、よくそんなに長く頑張れたものだと不思議に思う。
 
 退院してから、ある人に「そんなに長く入院していては、さぞかし退屈だったでしょう?」と言われたことがある。私は憤慨した。思わず、「冗談じゃないぞ!」と声を荒げた。
 退屈どころの話ではない。毎日毎日が辛い闘いだった。あの病気を経験した人なら、だれもがそうだっただろう。
 いつも熱や痛み、嘔吐、下痢、感染症に苦しめられて今日死ぬか、明日こそ死ぬかと思った日も少なくない。同じ病室にいた患者が亡くなって、残った患者どうしで涙にくれたこともあった。そして自分にも、いつその順番がまわってくるかもしれないという入院生活というものは、けっして愉快なものではない。まるで命の篩い(ふるい)にかけられているような日々だった。

 闘病していたころの記憶はどういうわけかよく思い出すことができない。まるで霧がかかったようになってしまう。あまりに辛い記憶というものは脳が拒絶するのだろうか。
 適合する骨髄のドナーが見つからず、本当に辛い悲しい思いをした。妻と何度泣いたかわからない。
 それでも昼間はまだ良いのだ。本当に辛いのは夜だ。
 消灯後の暗い天井を見つめていると、幼い息子の顔を思い出す。健康なころ、仕事にかまけて父親らしいことをしてやらなかった後悔の念がこみあげてくる。思わず、息子の写真に手を伸ばす。すると、もう取り返しのつかないかもしれない自分の運命を思い、どうしても泣いてしまうのだ。「もう、こうなった以上、じたばたしても始まらない。」とも思うのだが、写真の中のあどけない笑顔が、私のそんな潔さをいつも鈍らせた。
 「ああ、せめて移植までたどりつけないものか。このままではみすみす命を落としてしまう。」いったい何度そう思ったことか。
 いまでも全国には私と同じような理由で骨髄移植が受けられず、あたら助かる可能性を残しながら亡くなってゆく患者がたくさんいるときく。私はそういう話を聞くと、いたたまれない気持ちになる。今日では臍帯血移植があることを知ってほしい!
 私は医師ではないので、骨髄移植と臍帯血移植の優劣を決めることはできない。しかし、私は生きている。臍帯血移植をうけて、こうして生きている。しかも、それは私だけではない。だれも、この事実を否定することはできない。

ちなみに私の移植に使われた臍帯血はHLA型が完全一致したものではなく、ニ座不一致のもので、その量は(2.47)、移植時の体重は70キロだった。