前章 >>   月下の涙

 既に日は落ち、辺りは暗い。
 そんな中、彼は数本目になる刀の柄に手を掛け、もう幾度目かの刃を玉砂利の上に横たわっている心臓へと突き刺した。肉を裂かれ細胞が急速に失われていくが、それはもう悲鳴を上げることもなくなっていた。
 既に人の形ですらない。手足は完全に切断され原型もなくなるほどに刺され、潰され、切り刻まれ、もはや肉片と呼ぶに相応しい。火が灯った松明で焙ったりもした。犬がここにいたとするならば、喜んで食らいつくだろう。両手両足をそれぞれいたぶった刀が、砂利の上に転がった各部分を地面と繋ぎ止めている。
 四本の刀と火の粉が残る松明が転がる中、少年は一人殺傷行為を続ける。
 肉片は、元は男だった。
 死に絶えた男の首は繋げたまま。ただし、右眼球に一際美しい刀が刺さっていた。
分厚い胸板に跨り、すらりと長い足を砂利の上に曲げながら見開いたままの男の片目を見下ろし、少年は再び力無く刀を振り上げた。そのシルエットだけを見れば、男の上に跨る女のような妖艶な影だ。
いくつもの時を重ねてきた松の幹のような色の髪としなやかな四肢。鎧と兜を脱いでしまえば、少年はただの若さ溢れる子供だった。闇に溶けているが、その肌はこの地方に降る雪の如き細やかで美しい。空洞の右目を覆う刀鍔は、何処かに落としたままだった。
この行為を始めた時は付けていた気がする。何よりも忌み嫌う右目を隠すものをなくしたとしても、今の彼にはどうでもよかった。
「……」
 左手は、動かずすっかり紅に染まった男の胸板に添え、右手で刀を突き出す。
 ぐしょ。ぐしゃ。ぐしゃ…。
 紅い水の音が、月下の玉砂利の上で奏でられていた。
 男の身体はもとより、少年の身体もそれこそ真紅にそまっていた。腕も首も頬も胸も腹も。汚らわしい血がべっとりと染まっている。先に付いた血が黒く染まろうとも、新たに飛び出してくる鮮血が常の上に付くので綺麗な紅だった。
 その身体から全ての血を抜くべく、人としての原形をもっともっと崩すため、ただ黙々と肉片を砕く彼の背後に見える外廊に、その様子を静かに見つめ続ける青年がいた。
「…もう、それくらいで宜しいのでは」
 青年と少年との距離は遠かったが、それでも静かな闇夜の月下。青年の綺麗な声はよく透った。
「御身体に障ります。そろそろ…」
「…許せるか」
 止める青年の声に対し、少年は振り向きもせず刀を力無く一定のペースで振り下ろしながら、ぼんやりと独り言のように呟いた。
「許せるものか…。許せるものか…っ」
 譫言のように呟きながら刀を突き刺し、肉を引き裂く。
「どうやったって…もう…。もう…」
 分裂した死体を相手にする少年の元へと音もなく近寄ると、青年は横からそっと刀を持つ彼の右手に自らの手を添え、制した。
「もう丑三つにございます。いつまでもそのようなことをお続けになっては、今後の戦に支障が出るというもの。さぞお疲れでしょう。さあ…」
 やんわりと刀を取り上げ、肉片の胸の上に置かれている左手共々、恭しく少年の手を取ると死体の上から立ち上がらせようとした。
 だが足元おぼつかない少年はバランスを崩したのか元よりそのつもりなのか、傍に寄ってきた青年の腕を払うと血塗れの両手で顔を覆い俯き、声もなく嘆いた。べっとりと両手に包まれた頬が紅く染まる。
震える息を吐き出しながら、透明な雫が左目から…。唯一残った左目から零れ落ちる。雫は少年の頬を染めていた血を僅かに流した。
「殿…」
 青年は脇に屈むと震える少年の肩を、慈悲を持って抱いた。
乾いた血が付いている髪に頬を添える。
「苦しみ。お察し致します」
「…っ。ぅ…っ、ちちうえ…」
 少年は俯いたまま青年の服に爪をかけ、顔を埋めた。
「…父上。っ…父上…父上…」
「…」
 魘されるように同じ単語を口にしながら、少年は見目も気にせず泣き崩れた。少年の紅い服に触れ、青年の手足も着物も、また深い紅に染まっていく。
 月がその紅を纏う二人を、美しく妖しく映し出していた。