遺言 >>   月下の涙 第十章

 二本松城の落としはあっけないほど簡単に終わった。
 全面降伏を申し出た畠山家に対してそれを最後には受けたものの、受けたのは本当に戦の後になってからだった。殆ど虐殺と言っていいほどに伊達軍は畠山の軍勢を薙ぎ払い続けた。
 総大将である政宗が観音堂でその身に鉛玉を受けたことなど、今となっては信じられない。一晩のうちに直属部隊に睡眠薬を盛られて安全な場所へ移動させられ、そこを抜け出て自らの意志で本宮城へ戻り、そこで知ったたったの二策。
連合軍を分裂させて退かせてしまえば、勝負は初めからついていた。本宮城から隊を退き、岩角城へと政宗は戻っていた。もっとも、今回は単独でではなく、生き残った家臣全てを総じての帰路だ。もう戦は終わったのだ。
 成実は他の家臣達と浴びるように勝利の酒を下の広間で飲んでいるらしい。連合軍が撤退した最期の夜はあのドンチャン騒ぎの声が政宗の部屋まで届いていたが、岩角城は上下の高さにも加え家臣達が宴会をしている場所よりも離れているため、彼の部屋は無音にも近い静寂で包まれていた。身を清めてから喪服に戻り、自室でぼんやり窓から眺められる空を見て座っている。
 一本橋の死体は大雑把には片付けたが、あの辺一帯は未だ血の臭いが濃厚で通ることもできない。妙な噂も付いた。あそこを通る者は戦で死んだ者達に魂を奪われるというのだ。実際にまだ戦が終わってからの日数は経っていないというのに、勝手にそのような話が生まれ広まっていた。
「人取橋」。人々は、一本橋をこの戦の直後からそう呼ぶ。
打倒畠山と憤っていた時はその時限定の明確な目的が持てていた。だが、仇討ちを果たした今、感じるのはもう何をしても輝宗が戻ってこないということばかりだった。早々に輝宗の墓を造ってその寝床を整えるという次にしなければならないことはあるが、それをしてしまうと今度こそ確実に輝宗の死を正面から受け入れなければならない。
情け容赦ない喪失感が彼を無気力にさせていた。膝を抱え、背を丸めて空を見る。雀が二羽、小さな翼を羽ばたかせて右から左へと横切っていった。
途端、ぐらりと思考が揺るぐ。
「…」
 彼はふらりと立ち上がると、両手を障子の縁へ置いて窓から下を覗き込んだ。
 自分が地上へと吸い込まれるような妙な錯覚に襲われている彼の視界に、門の方から一人の若い男が左右に二人の門兵に囲まれて歩いてくる。薄汚れた着物を着ているが、その姿には見覚えがあった。
彼の姿を見た途端、政宗の中に突然沸騰したような怒りが芽生える。
「あいつは…!」
『殿、失礼致します』
 小十郎が断ってから、背後にある襖を開けて入ってきた。
「大殿の小姓でいらした柚家殿が殿へお目通りを願いたいと」
 互いの告白以降も全く以前と変わらない小十郎と違い彼の姿を見ると僅かに動揺してきた政宗だが、今は振り返ると何も臆することなく同時に右手を振った。
「通せ。今すぐに俺の前にあいつを連れてこい!」
 引退した輝宗の身の回りを世話していた柚家は、輝宗が畠山に捉えられて連れ去られていく時には既にその姿をくらませていた。
 それに気付いた者はごく少数だが、普通ならば日頼のように前線に立って憤怒するような立場のはずの彼が失せたということを、当時は慌ただしく心身ともに不安定で政宗は気付くことができなかったが、彼の存在が見えぬことに激しく腹を立てていた。
 逃げ出したのかと思っていたのをこうして堂々と門から入って面会を求めるのなら、それなりの理由があるか、または逃げ出したことを許して欲しいとの申し出かのどちらかだろう。勿論後者の場合政宗は許す気などなく、前者の場合でも不愉快なのは仕方ないが話くらいは聞いてやってもいいだろうと考えた。
 元より政宗は常に愛しく思う輝宗の傍で仕え、自分より若干年上の彼に軽い嫉妬も感じていた。親子であり一番に輝宗を想っているはずの自分が何十キロと離れた場所で諸国相手に戦をしているというのに、その間にも柚家は傍にいるのだ。
 馬鹿な嫉妬だと自覚していても、彼に対して突っ慳貪になってしまうのは仕方ない。
 通常政宗の前に通される客人は小十郎が身形を整えてから引き合わせる。あの畠山義継すらそうであったように、相手が政宗よりも下の身分であればあるほど彼と面会する以上はそれなりに整えてからでないと小十郎が許さなかった。
 だが、どう言いくるめてきたのは知らないが、政宗の部屋に柚家が姿を現した時、その衣類はさっき見下ろした時と少しも変わっておらず、薄汚れていた。
「申し訳ございません。何分緊急とのことで…」
彼を連れてきた小十郎は表情を変えないがやはり汚れている者を主の前に引き出すのが不本意なのか、政宗の横に来ると小さく謝罪した。
「別に構わん。入ってこい、柚家」
「失礼致します」
 隣の部屋との境目に両手を前で会わせて座していた柚家が顔を上げ、政宗を一度見た後もう一度頭を下げて部屋に入ってきた。
 柚家という男は政宗よりは小十郎と似ている。それほど身は華奢でもないが、艶のある黒髪が綺麗に一つに纏められており、彼が動くたびに肩の上を滑って揺れる。この歳で元服していないということはないだろうが、初陣の話は聞かない。小姓というよりは輝宗の側近だったのだろう。
「この度は兵数の差を諸戸もせず南奥羽連合軍への勝利、誠におめでとうございます。我が主、輝宗様に代わり、ここにその賛辞を述べさせて頂きます」
「はっ。父上の代わりにだと…?」
 正面に間を空けて座る彼を、政宗は右にある肘掛けに体重をかけるようにして足を崩し、睨むように彼を見た。
「何が父上の代わりだ。お前はその主が危機に瀕している際にその場に姿など見せなかったではないか!父上がどのような非業の死を遂げたか、どのような屈辱をその内に抱えてあのような領地の外れまで連れて行かれたのか!お前に父上の代わりを名乗る資格など…!」
 言っている途中でじわりと内側から哀しみが込み上げてくる。
 とても続けられず、政宗は唇を噛んで横を向いた。
彼の意を十分すぎるほど理解している小十郎が横から続ける。普段は政宗に一言断ってから発言するのだが、今はそんなことが不用だと分かるほどに彼は政宗を理解していた。
「柚家殿。此度は何の目的でいらっしゃったのですか。殿は戦でお疲れです。用件なら手短にお願い致します。…もっとも、次に出る言葉によってはほんの一瞬で謁見が済む可能性もございますが」
 そう言って、小十郎は脇差へと手を添えた。
 政宗が思っているように恐怖に怯えて輝宗を捨て逃げ、許しを乞いに来たとすれば柚家を生かして帰す気はなかった。政宗の部屋を血で染める気は彼にはないが、すぐにその動きを封じて捕らえることくらい造作もない。
 だが全く臆した様子もなく、柚家は小十郎を直視した。
「それは困ります。私には指命がございます故に。首が欲しければ後ほど」
「指命?」
 政宗が顔を柚家に戻し、訝しげに尋ねる。
 柚家は改めて両手を前に出し、深々と政宗に頭を下げた。
「伊達家十七代当主、伊達政宗殿。十六代当主、伊達輝宗様より言伝を承っております」
「何…!?」
 予想外のことに、政宗は思わず立ち上がった。
小十郎もその言葉に目つきを変えて顔を上げ、二人の視線は平伏す柚家へ集まる。
「輝宗様は自分の死の後に起こる今回の戦を先読みされておりました。連合軍との戦に政宗様が勝利した際にと私に託されたお言葉でございます。紙面に残してはおりません。どうか謹んでお聞き下さいますよう」
 彼は頭を下げたまま、まるで造られた人形のように一定の声でもって輝宗から受けた決して紙に残らない言葉を紡いだ。
 それは政宗の耳に届く際、あの優しく低い声に変じる。

『政宗へ
此度の戦に勝利したとあっては、後世に残る大変な功績だ。私を失ってから
のお前の様子を思うと、全くと言っていいほど可能性の見えない戦だったと
自分でも分かっていると思う。鉄砲で狙われやしないか、理性を失い無茶
な行動をしていないかと柚家に言葉を託している今でも先の未来を考えれ
ば不安で堪らない。中で最も恐れているのは、お前が私の後を追い自らそ
の腹を裂かないか、または自暴自棄になって死を望まないかだ。私はこれ
が一番哀しく恐ろしい。私はそのようなことを決して望んでいない。寧ろ、
私の死がお前にとってもう一段高い場所へ上るための足場でありたい。
私はうっかりお前を私という駕籠の中に入れてしまった。限定されている空
では、如何に素晴らしく大きな翼があろうともその両翼を広げることすらで
きないだろう。お前は無限の空を羽ばたける翼を持っている。私や、私の父
親が決して持てなかった翼だ。長い間駕籠の口を開けてやれなかった私を許
してくれ。
だがもう案ずることはない。駕籠は失せた。あの日、あの時、あのタイミン
グでしかお前を開放する手段はなかった。そうでなければ、以後列強との戦
などに勝てはしない。私はお前を危惧していたのだ。お前のことだから私が
死んだ後すぐに畠山殿を捕らえただろう。畠山殿には悪いことをしたが、あ
の方は元々私の命だけではなくお前の命すら狙っていたお方だ。おあいこと
いうものだろう。黄泉路で文句くらい聞いて宥めておくよ。
自分のために私が死んだなどと悲観など決してしないでくれ。私は、自分で
決めたお前の舞うべき空との釣り合いに非常に満足している。私が本当に満
足しているかどうかは、他ならぬお前が一番分かっているはずだ。
   正直、この戦にお前が勝てるかどうかは五分五分だった。しかしどうだろう。
今お前はこうして生きていて、もうこの世からは失せた私の遺言を聞いてい
る。可能性のないこの戦に望むにあたって、お前を支えてくれたのは誰だか
考えてみなさい。決して私じゃない。お前が私の死に束縛される理由は何一
つないのだ。それよりは、これを乗り越えられるほどに強くあってほしい。
重ね重ねだが、本当に此度の戦の勝利、おめでとう。最期の私からの我が儘
を、どうか聞いて欲しい。
愛しい我が子よ。私の死がお前にとってよき足場となり、お前の未来が光で
照らされ末永く続くよう、柚家に言葉を託す。
伊達輝宗』 

「…以上です」
 大切に頭の中へと置いていた今は亡き主からの言葉を伝えてから、柚家は改めて深く頭を下げた。
 彼の中にあった胸の支えがすっと取れる。気の緩みが一気に身体を駆け抜けた。
「これが、輝宗様から、の…。失礼…ッ」
 それまで何事もなかったかのように言動を続けていた柚家が、急に激しく咳き込み始めた。身体を上げ左手で口元を押さえて隠そうとするが、細い指の間からは赤い血が溢れる。
 彼の吐血を見て、小十郎がはっと顔を上げた。その症状から大方の予想は即座につく。
「柚家殿、まさか毒を…」
 咳を続ける柚家は否定も肯定もしなかったが、小十郎を見て小さく微笑んだような気がした。
 袖で赤く線が垂れる口元を一度拭う。しかし既に毒は身体中に回り、息すら整わないようだった。冬の日にすきま風が鳴らすような細い息を口で続け、崩れるのを支えるかのように両手を畳みに置いて背を下げた。
「すぐに解毒剤を…。…!」
 片足を上げて立ち上がろうとする小十郎の前に、すっと今まで立ち呆けていた政宗が右手を真っ直ぐ横に上げて彼を遮った。
「…殿」
 戸惑う彼の目の前で、政宗は肩に羽織っていた布を羽織り直し、その場に座る。
 柚家が来た時のように足を崩しているわけでもなく、大切な客人を迎える際や公式の式典などのような気構えて背を伸ばし、肘立てにも腕を載せはしなかった。一瞬、主の真意を謀りかねた小十郎は驚くように政宗の方を見たが、その落ち着いた横顔を見てそのまま再び足を畳んで席に着いた。
「よく伝えてくれた」
 もう政宗は目の前のこの男に敵意など持ってはいなかった。
 まるで文を預けるような、落ち着いた声を紡ぐ。
「私のことは心配いりません。どうぞそちらから我が勇姿をご覧下さいと、伝えてくれ。…父上の身辺は今後もお前に任せる」
「…有り難き…幸せ…」
 最期の言葉を心から幸せそうに口にすると、彼は崩れるようにその場に血を吐いて倒れた。
 政宗は彼の亡骸に羽織っていた布をかけ、長い間目を閉じ、無言で輝宗の遺言と柚家の忠心を讃えていた。