終章 >>   月下の涙

 朝が近くなると、政宗は外廊を離れて庭の中央へと歩いていった。
玉砂利が鳴って彼を迎えるが、彼自身が動きさえしなければ世界は音を忘れたかのように静かだった。
「終わったのか?」
 音も発てず外廊を進んでやってきた小十郎に、突然政宗が正面を向いたまま声を掛けた。
 背後を向けているはずの彼が自分を察知したことに小十郎は少々驚いたが、持っていた駕籠を横に置くと、その場に座って一礼した。
「ええ。穏やかそうな表情でお眠りに」
「…そうか。後で父上の傍へ一緒に添えてやろう」
 空を見上げていた政宗は俯き、溜まった息をゆっくり吐いた。
「困ったものだ…。あまりに途方もなく広い父上のお考えを聞いて、賛辞することも感動することもできない。何も言葉が浮かんでこないのだ。嬉しいのか哀しいのか…」
「恐れながら、私も同様にございます。本当に、素晴らしいお方です」
「ああ。…だが、胸の辺りがすっとしている」
 ここ十数日であまりにも多くのことが彼の周囲を荒くれだった波のように流れていった。
 感情に任せて動いていた政宗には輝宗の死から今までずっと、一時として心を落ち着かせる時間がなかった。それが輝宗の遺言を切っ掛けに、今までの反動のように一気に日頃の彼が戻ってくる。
 いや、日頃のというよりは、今は輝宗という愛しいが自分を囲んでいた駕籠すら無くなり、生まれて初めて彼自身が本来持つ感情や思考を何者からも抑制されることなく広げることができていた。
 輝宗に包まれることに一番の幸福と自分の居場所を感じていたが、彼の言っていたことはこれかと、今なら理解できる。そしてこの開放感を政宗が得ることを他ならぬ輝宗が望んでいたからこそ、彼は素直に受け入れられた。
 今は世界全てが違う。
今まで自分の視野が如何に狭かったか、それが分かる。
「父上は柚家がご自分の後を望んで追うことを分かっていたのだろう。しかし、それを止めなかった」
「それが柚家殿にとって最良の道だからでございましょう。逆に、殿がここで死すべきは最良ではない。ですから大殿は殿にとって最も良いと思われる道を遺言によって示されたのです」
 輝宗はずっと政宗を自分から独立させる切っ掛けを探っていた。
 それがたまたま今回の畠山が最良と考えただけだ。もし彼が輝宗へ刃先を突きつけなくても、遅かれ早かれ輝宗は自分の死による政宗の独立を狙っただろう。人の生死の先にある各々にとっての最良の道。それをひたと見据えることができるのは、この世にそう多くはいない。輝宗はまさにその偉人の中の一人だった。
 改めて父親の素晴らしさに心を打たれるが、これはもう陶酔ではない。
「柚家か…」
 今まで嫉妬の対象でしかなかった男は、死を持って主の言伝を伝えた。
 彼が輝宗に仕えたのはあまり長い時間ではなかったが、その忠心には濁りなどなく真っ直ぐ輝宗に捧げられていた。指命を授けられたとはいえ、死を覚悟して連れ去られる主人の最期を見送らずにその場を離れるのはさぞ苦しかっただろう。
 柚家の当時の思いに考えを馳せている政宗へ、小十郎が遠くから言葉を投げた。
「私が柚家殿の立場であったとしても、おそらくは同じ決断を」
「…ふん」
 距離のある家臣の発言を鼻で笑い、政宗は数歩歩いて近くの紅葉の木へと進んだ。
 紅く紅葉した葉を手覆いごしに指先で遊ぶ。
「どうしてお前が自分よりも脆いであろう俺に縋るのかがよく分からない。昔からそうだったな、お前は。気付けば傍にいた」
「…。…私は」
 小十郎が一度押し黙った。
 しばらくそのまま静寂が流れても、政宗は何も言おうとしない。それが日頃寡黙な側近の言葉を促すための沈黙だと分かり、観念してゆっくり瞬きすると小十郎は口を開いた。
「…殿が御歳三つの頃でございます。まだ大殿の傍で仕えていた頃、私は大殿から二つの椀を預かりました」
「椀?」
「ええ…。それを貢献した二名の家臣へ届けよと。しかし、今となってはお恥ずかしい過ちですが、一つを落として割ってしまい、廊下で途方に暮れておりました。あまり使われていない奥の廊でしたので、人はどなたも通りませんでした。…殿以外は」
 小十郎は下駄を履き、ゆっくりと庭へ進み出た。
 政宗が三歳の頃、小十郎は十三だった。その頃からどちらかというと静寂を好む小十郎は薄暗い城の奥にある廊下をよく利用していたが、そこにまだ双眸があった幼い政宗…当時はまだ幼名で梵天丸だったが、彼が通るのは非常に稀だった。庭や外廊で駆け回っていることが多かったからだ。
 小十郎と出逢った政宗は事情を聞き、小十郎から残った椀を手にするとそれをその場で叩き割った。そして顔面蒼白になる小十郎に、たった三歳の子供が躊躇いもなく言い切った。
『父上の小姓ならば、たかだか椀などで心を乱すな。そんなことより、指を切らずにあったことを喜べ』
 父上には自分から話しておくから、お前は片付けるだけでいい。
 そう言って、何事もなかったかのように廊下を庭の方へと駆けていった。
 それまでは遠巻きにしか面識のなかった小十郎は、決して政宗と親しかったわけではない。初めて言葉を交わしたと言ってもいいくらいだった。自分より十も年下の、まだ小刀も満足に扱えぬような相手の言葉に、小十郎は酷く衝撃を受けた。
 それまで、自分の代わりはいくらでもいるだろうと小十郎は考えていた。捻くれていたわけではなく、実際に他の小姓は何十といて、現実をよく見た上で冷静に自分は多くの人間の中の、輝宗に仕えていられる者の一人だと考えていた。
 当然のように椀より自分を優先した言葉を聞いた途端、それまで自分が一番欲しかった言葉がそれであることが初めて分かった。政宗は幼く言葉も軽く、あまり深く考えての発言ではなかったかもしれない。だが、輝宗から授かった二つの杯と彼とを比較し、初めて言葉を交わした政宗は迷うことなく小十郎を優先した。それが飾り気のない軽い言葉であるからこそ、自らの価値をそれ程に見出せないでいたじわりと小十郎へと染み込んだ。
 その日は、小十郎は自分の価値それ自体を捧げる対象を見つけた日でもあった。
「…覚えていない」
 しばらく考えてから、政宗は正直に言った。
 彼の記憶の始まりは常に病に伏せた所からだ。あれ以来の出来事しか覚えておらず、それ以前がどうであったかは以降の哀しみが強すぎて塗り潰されてしまっていた。庭で走り回ったこともまだ母親が自分を愛していてくれたことも、既に記憶にはない。
 素直な政宗の返答に、小十郎が僅かに口元を緩ませる。
「そういうものです。人に影響を与える言葉というのは、本人にしてみれば何でもない言の葉…。だからこそ、発する者の人格そのものが一言二言で相手に理解させ、感化させられるのでしょう」
 政宗の傍に来た小十郎は一定の距離を取って、彼と同じように目の前に植えられた紅葉を見上げた。
「たった御歳三つの貴方が仰った言葉に、器を見ました。広く深い器は、それ故に確かに少々脆いかもしれません。しかし、それでしたら下に布を置けばよいだけでございます。如何に擦り切れようと、最期まで私はその下布でありたい」
「…お前を縛りたくない」
 紅葉の葉一つを枝から千切り、政宗は小さく言った。
 小十郎が彼へ陶酔しているということは、小十郎は未だ駕籠の中にいるということだ。自分がそうであったかため、政宗は今の小十郎がその駕籠に満足していることを理解できた。だがそれは極めて視野を狭めてしまう。彼がその気になれば政宗すらも通り越し、もっと高い場所へと上れることができるだろう。
しかし小十郎はそれを断った。
「私は限定された空で構いません。殿が幾度輪廻転生を繰り返しても大殿の傍におりますように、私も殿のお側にありましょう」
「…!」
 その言葉を聞いて、かっと政宗の頬に朱線が走り、弾かれたように顔を上げた。
 驚愕に目を見開いて振り返ると、予想外に近くに小十郎はいた。慌てて後退して再び距離を取る。彼が輝宗にその言葉を言ったのは、輝宗の自室で情事に及ぶ前だったはずだ。今の言葉が筒抜けだとすると…。後は考えたくもない。
「…最悪だな」
 気分を害した政宗は赤い顔を横に反らして呟いた。
「承知しております。しかし、強い光に絶えず濃い影ができるのが世の道理であるように、それも致し方ないこと」
 小十郎に言わせれば、最良である政宗には最悪の家臣が必要らしい。
 滅多に喋らないはずの彼が次から次へと進んで言葉を投げてくるので、政宗は対応に慣れず困ったように小十郎へ向いた。
「いつからそんな口達者になったんだ」
彼も政宗同様、一連の出来事で長年抑えていたものが解き放たれた。
 小十郎にとっての鳥籠だった政宗が自由になり広がったことで、彼の圧迫も随分減ったようだ。だがもはや完全に失せた輝宗と違い、やはり今だに政宗に縋る部分があるのは否めない。それでも、小十郎は今の空で十分だった。
彼には、未だ目の前の若い主がいない世界など有り得ない。そして永久に開放の時は来ないだろう。
 小十郎は目を伏せて返答を逃れたが、微笑んでいるようだった。
 やがて間を置くと、小十郎は政宗に会釈をしてから外廊の方へ戻っていった。来た時に板の上に置いてきた駕籠を取り出すとゆっくり覆っていた布を取る。遠巻きに彼の様子を見ていた政宗が、中から現れたものに首を傾げた。
「何だその鷹は」
「宗里の子にございます」
「…宗里の?」
 駕籠の中で翼を閉じていたのは一匹の若く茶色い鷹だった。
 夜が落ちた今は視覚を失っているらしく、見当違いの方をきょろきょろと様子を伺うように向いている。宗里の子にしては白くもないし、茶色にしたって色の深みが違う。だが、親と比べれば違いは目立つものの、決して毛色は悪くはない。
 駕籠に小十郎が手を入れると鷹は慌てふためいてしきりに喉を鳴らし警戒したが、敵意がないと動物的な勘で分かるのか、やがては進んで彼の指に足を乗せた。そのまま、再び政宗のもとに歩み寄る。
「似てないな」
「ええ。血は繋がっていても、決して宗里殿ではございません」
「…」
 政宗はじっと鷹を眺めていたが、すっと左腕を今は盲目となっている鷹の目の前に伸ばした。
「来い」
 短い命令だが、それを受けて鷹はおずおずと小十郎の指から政宗の腕へと飛び移る。
 まだ躾などされていないだろうに、かつて若い宗里がそうであったかのように本能的に彼が自分の主人であると分かるらしい。宗里を腕に載せる時と比べると随分と軽いが、やがては同じ重さになるのだろう。
 左腕を右肩へと近づけると、宗里の子は自然と政宗の肩へ飛び移った。まだ完成されていない爪はそれでも鋭く、肌の皮へ擦り傷をつくる。鷹は、まるで自分の場所を見つけたかのようにそこで大きく翼を広げた。
夜闇の中、月を背後に政宗の左右に翼が広がる。それは以前よりも小さいが、色は濃く鮮やかだった。
「…お美しく」
「…」
 僅かに躊躇ったのち言った小十郎に、政宗はそのまま背を向けた。
 もう空が明るくなりかけている。朝靄が庭にうっすらとかかってきていた。政宗は自分を取り巻く世界を一通り見回してから、俯いて呟いた。
「小十郎。…俺は、自分が極めて弱いのを承知している」
「決してそのようなことは…」
「聞け」
 いつものようにすぐに否定しようとした小十郎を遮り、政宗は続けた。
 右手を左の腕に添え、ただ足元の玉砂利を眺める。
「俺は今、一つの壁を乗り越えたと自分で思っている。父上がご助言くださりようやく乗り越えられた大きな壁だ。しかし、このままどんなに強くありたいと願い努力を重ねても、やがてはまだ壁にぶつかることがあるだろう。その時、父上という支えを失った今、俺は脆く崩れるかもしれない。……。…小十郎」
 顔を上げ、政宗は反転すると小十郎へと身体を向けた。風が吹く。
両方の爪先を彼へ向ける。失われた右目も含み双眸を真っ直ぐ、もう十年も絶えず傍に居続けてきた相手へと向け、堂々と尋ねた。
「永久に俺を支える自信はあるか」
 応えは予想できていた。
 彼が考えていた通り、向かい合った小十郎は双眸を鋭く口元を引き締め、彼を一度見るとその場に片膝を追って跪いた。深く深く頭を垂らし、長い髪が土に着く。着物の膝下が汚れるのも髪に砂がつくのも、全てを喜んで受け入れた。
「全てを懸けて」
 声や行動に躊躇いは微塵もなかった。
 それは一種の契約だった。彼の支えは極めて重い。それを一番良く知っているのは長い間傍で見てきた小十郎本人だろう。しかし彼は命も身も何もかも、彼の持つ全てで支えることを約束した。
 彼のその声を聞いた途端、決して今中にある感情が不安定なわけではないはずなのに政宗の内側から急速に穏やかな、でも止められない波が身体を上ってきた。出口を求めてそれは涙となって左頬を伝う。
 小十郎の言葉を受けて、初めて安堵できた。自分の足で何者にも縋らずあまりに過酷すぎるこの乱世を歩いていくことを決めた。例えそこが木々に多い茂られた夜山であっても戦で死んだ死体の山であったとしても、振り返れば必ず彼がいることが約束されたのだ。
 きっと歩き続けることができただろう。
「いい返事だ…」
 政宗が再び俯いて前髪で涙を隠そうとした直後、小十郎が駆け出すように玉砂利を爪先で蹴って彼へ手を伸ばし、初めてその身体を抱きしめた。
 肩に乗っていた宗里の子は驚いて高くその場を飛ぶ。その目に、今まで沈んでいた太陽が上がってきたことによって光が戻ってきた。
ばさりと一度大きく若い翼で羽ばたき、一匹の茶色い、白と比べると随分汚れている鷹が早朝の空を高々と舞う。
 月下で流される最後の涙は、優しい白い袖で拭われた。

 彼の覇道は ここから始まる。


                                                     --終--