崩壊後編 >>   月下の涙 第三章

 一方、河から二名の従者と逃げ出した義継は息を切らせて小丘を登っていた。
 後ろから荒れ狂った猪のように突っ込んでくる成実の勢いは止まらず、持ち武器を金砕棒と呼ばれる細い金棒のようなものに変えると従者一名を容赦なく撲殺した。やがてまた追いつかれそうになりもう一名が今は足止めをしているが、このまま追いつかれたら次は確実に命はないだろう。
 しかし、彼もまた武士。人に殺されるのならば自害を願った。
 もう逃げ切るのは無理だろう。この丘を上がりきった所で腹を割くつもりだ。
「何て事じゃ。伊達は鬼の国か!」
 全速力で斜面を登るのは、彼の歳ではしんどい。
 ひいひい言いながらやがて丘の上に上り、疲労に動かぬ身体に鞭を打ってその場姿勢を正して正座すると、脇差を取り出して鞘から抜いた。ぎらりと銀の刃が光って義継の顔を映す。
「…」
 このような所で果てるとは思わなかったが、鬼に連れられるのよりはいくらかはまし。
 義継は着物の上半身を脱ぐと柄を握り、刃の先を自らの腹に添えた。
しかし、彼がその脇差を動かすことはできなかった。
「…!」
 無造作に義継の背後から二本の腕が伸び、脇差の抜き身の部分を手でしっかり握っていた。この脇差は玩具などではない。物でも人でも斬れる。現に、背後から伸びてきた二本の手は鋭利な刃に皮と肉を切られ、血が流れ出す。
 一度腹から離そうとするが、押しても引いてもびくともしない。途轍もない力で刃を押さえられていた。
「な…。何者、だ…」
 白い顔で義継が独り言のように小さく言う。
「…自害などさせるか」
 義継の質問には応えず、背後の人物は低いドスの効いた声で呟いた。
「…!」
 背後から、彼の後ろ首の下に手刀を叩き込む。
 義継は気を失うとその場に横倒れた。
その背後から、すっと男が一人立つ。黒い着物を着た、義継と同じような歳の男が無表情に立っていた。小十郎と違い、楽天家の彼がここまで表情を消すのは珍しい。それ故に恐ろしいのだが、義継は彼の性格も素性も知らなかった。
鼻頭の傷と右首に着いている刀傷…。鬼庭だった。
「外道が…。汚らわしい貴様など殿の視界にも入れたくもないが、その命をもってして少しでも殿の哀しみを癒させてもらおうか」
 吐き捨てると、彼はやがて来るであろう成実に後を任せ、自分は丘を降りた。


 義継を引っ捕らえた成実が河原に戻ってきても、あまりそこに広がる景色は変わっていなかった。違うのは政宗の傍に、輝宗の他に何故か宗里が地に落ちているということ。
 その場に何十という人がいるが、誰も政宗にかける言葉を持ち合わせていなかった。
 日はどんどん落ちていく。
 空色が朱色から紺に変わる頃、虎哉が言ってようやく政宗はふらつく足で立ち上がった。空かさず小十郎がその身体を支え、輝宗と宗里の死体は丁重に運ばれた。政宗はもう物言わぬ二つの身体から離れず、小浜城に戻るまで行列の先頭でも中央でもなく、その横を黒馬に跨って歩いた。