夜祭 >>   月下の涙 第四章

 そして三日が経つ。
 政宗は生前輝宗が使っていた部屋から出なくなった。
三日という僅かな日が経過したところで、彼の目の前で倒れた父親と幼い頃から傍にいる一羽の鷹の姿は一度きりとして瞼から離れない。彼らとの思い出は多々あるが、どういう訳か死に際しかもう思い出せなくなっていた。
 四六時中苦しみを抱える政宗は一睡もしなかった。布団が引かれても食事を与えられても部屋の隅にある太い柱に背を預けて膝を抱え、頭を垂れるだけだった。
 誰もが彼を気遣い慰めの言葉を投げたかったが、小十郎が誰一人として面会を許さない。成実などは何度も何度も来てはうろうろ戸口の前で心配そうに歩き、やがて追い払われて帰るのだがそれでも数時間後にはまた来る。
 寡黙な側近は常に部屋の隅に控え、主と同じく沈黙をして日々を過ごしていた。
 月の綺麗な晩だった。
 突如、ふ…と政宗が膝から顔を上げる。
「…刀を持て」
 いつ言われてもいいように、小十郎は常に隣の部屋にそれを用意していた。
「…」
 漆塗りの黒い刀を一本受け取ると、政宗はその刃を抜いて鞘を投げ捨てた。
ずるずると刃を引きずるようにして、力無く部屋を出ようとする。刀の先で畳みが削られ、一本の細い線ができる。
「下郎を庭へ」
 小十郎は座ったまま片手を横に振り、部屋を出る主を見つめながら誰ともなしに言った。
 屋根裏で頭を下げた鬼庭がすぐにその場から去る。それを気配で察すると、小十郎もまた立ち上がり、政宗の横を通ると襖を開けて頭を下げた。


「一人にして欲しい」
 そう言うと、政宗は小十郎除いた鬼庭や、心配して寄ってきた成実を城内に戻した。
 深夜の城は寝静まっており、ここ三日部屋から出ることのなかった政宗が今まさに庭にいることなど、皆は気付いていないだろう。
 義継は三日間、牢の中で生かされ続けた。牢の中と言うことは別として、食事の待遇は驚くほど良かった。それにここに連れてこられる少し前には着物をわざわざ汚れ一つないものに替えさせられた。ひょっとして許されるのではないかと思うほどだ。
 だがそんなわけはない。三日前と変わらぬどころか、何処か健康そうにも見える義継は両手両足に枷がされていた。両手は後ろに回し、手首を板で上下から挟むように固定され、足首も同じだった。
「畠山義継。顔を上げろ」
膝と顎を庭に広がる白い玉砂利の上に載せ、恐る恐る義継は目の前に立つ政宗を見上げた。
 そこに立つのは彼が知る政宗とは別の顔の、霊のように気配のない少年だった。戦場でしか会う機会のない彼らの関係では本来見ないはずの政宗の顔に、義継は驚く。彼を纏っている空気があまりに淡く不安定だった。
 鎧もなければ兜もない。着物でもなければ小袖でもない。政宗の着ている服はそれらのどれにも属さない薄着だった。袖無しの黒い服に両手は肩まである網小手、その上から肘までの黒い手覆い。踵の厚い膝丈まである漆の靴だけは見たことがある。戦で用いている臑あてが中に入っている硬いものだった。
 彼の背後には白い服を纏った小十郎が、異様なほど腰や手に刀を持って立っている。
「貴様の今回の振る舞い…。分かってはいるだろうが、万死に値する」
 政宗は静かに感情のない声で言う。
「俺に対しての裏切りならまだしも、父上の優しさに付け込み口添えをさせた挙げ句に人質として逃亡、及び殺害。自分の行為が如何に卑劣で浅ましいものか、理解できているのだろうか」
その冷静な声は側近の小十郎にそっくりだった。
 だが義継の方も三日間牢の中に入れられ、もう死の覚悟はできていた。しかも目の前に現れたのは血肉を好む戦地の鬼とは程遠い雰囲気の少年だ。
「は!政宗殿、それではまるで全面的に儂が悪いような物言いですな」
「…何が言いたい」
「そもそも可笑しいのは輝宗殿のあの腑抜け具合。世は乱世!あれでは騙してくれと言っているようなもの。そして政宗殿、貴様もまた甘い。貴様は何だ、父親に言われたからといって、八百人を殺しておいてまで大内を追い詰めたというのにあっさり方針の変化!貴様のその心変わりで無駄死にした数を忘れたか!」
「…」
「儂一人殺したところで無意味じゃ。間もなく佐竹蘆名連合が貴様を襲うだろう。如何に鬼の国と言えど、あの大軍勢には敵うまい!あとしばらくの命じゃて!はーはっはっはっはっは!!」
彼は政宗の足先に唾を吐き捨てた。
「…」
吐き捨てられたそれをしばらく見下ろしていたが、やがて無造作に政宗は右足を少し後ろに引いた。次の瞬間、彼はヒュッ…という音のする息を吐くと、笑い続ける義継の横っ面を矢も槍も刀も、鉛玉すら通さぬ硬い漆の靴でもって蹴り飛ばした。
「ぐが…!」
彼の二倍ほどはありそうな男の身体は右へ飛ばされ、玉砂利を鳴らしてうつ伏せ転げる。
三メートルほど飛ばされた彼を追って、政宗は静かに移動した。ここまで来た時と同じく、彼の移動に合わせて右手に持つ刀の刃が玉砂利を擦ってカラカラと哀しく鳴る。
「俺の命などどうでもいい。許せんのは、貴様ごときに父上とそして宗里…。ことごとく俺の大切なものを奪われたことにある。貴様ごときに。…やはり分かっていないようだ」
「ぐ…!」
政宗はうつ伏せになっている義継の背に回っている彼の左腕を踏み潰した。
関節が音を発てて鳴くが、彼は気にせず何を考えてか、刀で手枷の板を斬りつけた。ふっと義継の両手が開放されるが、片腕は政宗に踏まれたまま。しかし右手だけでも自由になれば…。
何のつもりか知らないが、義継にとってまさしく好機だった。すぐに政宗に一太刀でもと思い、右腕でうつ伏せになった身体を起こそうとする。体格差から言っても、単純に腕力勝負だったら絶対に義継が有利だ。
「…っ!」
背中に足を乗せる政宗を払い除け、義継は膝立ちででも立ち上がろうとする。
だが予想外に政宗はあっさりと彼の背から足を離して距離を取った。
「小十郎」
「…」
 ふわりと後退する彼の声に、背後にいた小十郎が懐から何かを取り出して義継に投げつけた。
 それは小袋のようで、義継の身体に当たると同時にパンッと音を発てて弾けた。黄色い粉末があっという間に義継の周囲に広がる。
 何だこれはと聞く間もなく、義継の四肢が急速に痺れだした。
「こ、これ、は…!」
「痺れ薬だ。小十郎の薬はどれもとても効く」
 しっとりと呟き、霧散していく黄色い空気へ政宗は歩み寄った。
 その足音にぞっとし、後退しようとするが枷などなくても今はその身は言うことなど聞かなかった。やがて足に力すら入らず、さっきとは逆に仰向けに砂利の上を倒れ込む。
「貴様によれば我が家系は油断がすぎるということ。なら少し厳しくいこうか」
 義継の側まで来ると、政宗は自虐的に笑った。
 陸に上がった魚のように意思とは無関係の痙攣を続ける義継の左腕に目を付けると、政宗は肘裏を片足で踏みつけた。
「宗里は俺の幼い頃からの数少ない友だった。忌み嫌われていた俺に寄り添い、絶えず傍にいてくれた」
そしてすっと右手に持っていた刀を右手で持ち、柄の後ろに左手の平を添えた。
切っ先は玉砂利の上に転がっている義継の左手の平。
「あいつが翼を失う痛みと哀しみ、貴様に思い知らせてやろう」
「ぐ、お…っ!」
 情け容赦もなく、彼は刀を左手へと突き刺した。
 肉を裂き血を呼び出し、玉砂利を弾いてその下の地面へと真っ直ぐ刺さる。まるで地面に敷かれた弓の的へ矢を射るように見事に射抜いた。
「ぐ…っ」
 痛みに顔を顰める義継だが、それでも政宗の気は晴れない。
「宗里の翼は二つ。雪の羽根と松の羽根と…。それは見事なものだった。あいつはもっと高く飛べたはずなのに、常に俺の周囲にいてくれた」
 主旨すら分からない独り言とともに、義継の左手を突き刺した刀から手を離すと、右手を肩の所で上向きに広げた。そこに小十郎が二本目の刀を無言で手渡す。
政宗は新しい刀を抜きいて鞘を玉砂利の上へ放ると、次いで右手にも義継という虫の動きを止めるべく、掌に切っ先を突き立てた。
左手はそれほどでもなかったが、右手にそうして突き刺した時はまるで身体が刃先を予想していたかのように血が飛び出て跳ねた。
「ぐあああっ!!」
「…父上の御身足を知っているか」
 溢れる血に全く動じず、政宗は冷えた隻眼で義継の脇に屈んだ。
 妖しくその手を彼の腿に添えて撫でる。
「俺は父上の膝で寝るのが好きだった。頭と身を預けると何者からも俺を労り包んでくれる。幼い頃も、今もだ」
 色を多分に含んで囁く政宗の言葉に、義継は彼らの関係を察した。
 驚愕に目を見開いて顔を上げる。
「き、貴様らまさか…」
 だが彼の言葉を遮るようにして、堂々と自らの異常な関係を示唆する言葉を洩らす。
「無関係の女どもが良くて、同じ血を持つ俺が繋がっては何故いけない」
 それを聞いた義継は顔面蒼白になった。
「父上の首筋と内腿に黒子がある。そこに接吻をするのが好きだった。だが…」
 常人とは懸け離れた雰囲気と残虐さと儚さを持つ者だとは思っていたが、まさかここまで狂っているとは思わなかった。今度こそ義継はここが人の住まう土地とは違う鬼の国だと理解する。
 だがその鬼は殺戮など本来望まず、寧ろ人よりも脆い生き物だった。だからこそ与えられた苦しみを少しでも緩めようと足掻く。
「頭を預けるどころか…、もうその姿すら望めない!」
 政宗は立ち上がると、小十郎から渡された三本目の刀を義継の左股に突き刺した。
四本目は右足へ。切っ先が肉を貫くたびに悲鳴が夜に響く。聞くも恐ろしい断末魔の悲鳴だが、目の前にいる二人は微塵も表情に変化はない。
 体内から流れ続ける血液は、既に周囲を紅く染めていた。だが彼の紅は政宗の履く黒い靴を染められず、逆に漆に飲まれて見えなくなるだけだった。
 義継が痛みで気を失いかけると、今まで離れた場所にいた小十郎が水をかけた後、何かまた得体の知れない粉末を義継の顔にかけた。
「気絶など許さん」
 心ここにあらずな声で、政宗が言う。
それはこれから始まる拷問の合図だった。
 今までのことなど序の口。座前のようなものだ。獲物が動かぬように固定しただけ。
 片足を上げると政宗は蛙のように開いた義継の腹を跨いだ。そのまま醜い男の腹に滑るように座ると、五本目の刀を受け取り手にする。
 その時義継が見たのは初めて見る政宗の笑みだった。
 薄く儚く、この世の絶望を全て知り尽くしているかのような暗く美しい微笑み。
「最期の夜長は俺に付き合ってもらおうか」
 柄から刀身を抜く。月光でそれは本来よりも美しく光り輝いた。
 右手を身体の後ろに引くと左手を刃に添えるように並べ、切っ先を義継の胸に向ける。
 一瞬間を取った後、政宗は流れに従ってそれを深く突き刺した。
 肉に刃先が侵入し、その音が、輝宗が胸を貫かれたあの音によく似ていて顔を顰めた。びくんと痙攣して義継が口から血を吐くが、体中に染み込んだ痺れ薬は本格的に効き出したらしくもはや喋ることもできない。
 心臓は敢えて狙わず、その傍の肉を目指した。刃が血を吸って喉を鳴らしている音が政宗には聞こえていた。どくんどくんと汚らわしい血が刃を上ってくる。それが柄の元に来る前に、引き抜いた。血は蓋を失って噴き出し、紅い霧に政宗の胸元が染まる。
 刃を玉砂利へ放ると、小十郎が新しい刃を再び彼の手に置いた。それをまた突き刺し、血を吸わせ、抜く。
 刺して。抜く。刺して。抜く。刺して。抜く…。
 罪人の身体を貫けば貫くほど、あの時の輝宗の苦しみが思われてならない。
 あの何倍も何百倍もの痛みを今この男に与えないと、彼は自分が本当に狂い出すということを分かっていた。哀しみだけじゃない。苦しみだけじゃない。憎しみでもない。全てを混ぜ合わせたような何とも言えない感情が体内から激情として外へ出ようとしているのを、彼は今義継を貫くことによって何とか抑えようとしていた。
 それを支えるのは傍に控える小十郎。
 今自分が行っている行動がどれ程残虐非道なものかは分かっていた。本来の彼ならば決して行わないどころか、このようなことをした相手を罵り、怒る。だが今はこの行為を行わなければ自分が壊れてしまう。
小十郎が責めずただ無言で傍にいることによって、聞こえない肯定の言葉が政宗を包んでいた。
 義継が息絶えるまで、そう時間はかからなかった。それでも、政宗は動かない四肢に刃を振り下ろす。
 失われた右目にもう未練はないが、自分がかつて心から望んだものを当たり前のように目の前のこんな男が持っていることが悔しかった。小十郎からの刀ではなく、自らの脇差で右目に刃を突き刺す。紅い血が涙のように義継の貫かれた目元から横に流れた。
 最初は静かに行われた復讐の行為は時が経つにつれて政宗を興奮させ両手足を切り離すまでに至ったが、やがて肉体も精神も疲れ果て、彼の振り上げる腕は低くなっていった。
 それでも止めない。
 まるで誰かにその行動を止めないよう呪いをかけられたかのように、延々と繰り返した。
それはもう、哀しいくらい表情のない顔で繰り返した。