人取橋合戦 >> 月下の涙 第六章 | ||
瀬戸川を左手に、成実隊の奮闘は目を見はるものだった。 橋を渡ってきてそのまま観音堂へと行こうとする大軍を、その前には少数としか言いようのない兵の数で文字通り横槍を入れる。恐らくこの圧倒的な数の前に、連合軍の兵達には余裕があったのだろう。まさか伊達家屈指の強者と称される成実がこのような場所から正面ではなく、横から飛び込んで来るという行動に完全に対応できないでいた。 成実は馬に跨り自ら先頭に立って右手に槍を持ち、まるで玩具をそうするように軽々と振り回し、回転させ、敵兵を確実に減らしていく。若い彼の勇士に促され、隊の面々もまた負けじと互いに競い合うように周囲に散って成実を守りながら戦った。 耳にいたいほどの怒声やら喚声やらの中、付近に近づかなければ味方の声も届かない。 「成実様!少々深く入りすぎます!」 成実の横で歩兵の首を切り取った部下の一人、広昌が声を上げた。 その声にくるくると槍を回し、成実が馬の手綱を左手で引いて足を止める。政宗が月であろうように、彼の兜には毛虫をあしらった飾りが施されている。毛虫は後に退かない。常に前に進むだけのその小さな生き物に、自分の理想の姿を託して兜に飾り付けたのだ。 全身を覆った黒の鎧は敵の返り血で見事に染まり、遠くから見ればまるで至る所に巨大な牡丹が描かれているようにすら見えた。槍の先にある矛はすでに紅く染まり、人も斬れぬほどに日差しに反射してどろりと光っている。 「もうそんな所まで入って来ちまったか」 広昌の声に、成実は槍を一振りして矛先についた血を飛ばしながら返した。 見ると、今まで左手に川が流れていたはずだが、いつの間にか橋の正面近くまでやって来ていた。 観音堂を目指す一団を横から攻めているのであるが、彼の隊は勢いをつけすぎてそれを横断するほどまでに深く入っていた。横に軍団を切ってしまっては意味がない。それはどっと押し寄せてきている大軍を分裂させることを意味している。二手三手に別れてしまっては、成実の隊が片方を相手にしている間にもう片方が確実に観音堂まで達してしまうからだ。 一本橋のおかげで、連合軍の大軍は一つとしての集団しか動けない状態にあった。長々と岸のこちら側から橋を挟んで反対側まで、まるで蛇のように繋がっており、尾の部分に当たる最後尾が見えないほどだ。 この無駄な繋がりを崩さない手はない。成実がここで無駄な大軍を切らない程度に数を減らせば、まだこの先にあと数隊、味方の隊がある。観音堂に着くまでに次第に連合軍先頭の方の数は減っていくという計算だった。 彼は決して馬鹿ではない。戦地では政宗よりも、時には小十郎よりも鋭い勘のようなものが働く。何が一番最適であるかが、彼の身体は勝手に理解していた。恐らく武人としての本能がそうさせているのだろう。 槍を天に突き上げ、周囲の部下達に声を張る。 「よし、退け!退けー!!」 彼の若い声は戦地でも他の者と比べてよく通った。 部下達は彼の命令に従い、猪のように攻め立てていたのをあっさりと反転し、瀬戸川館の方へと馬を走らせて戻っていく。成実自身も背を見せて戻っていった。 それを見て、連合軍の兵達は好機とばかりに矛先を向けては追っていく。 「見ろ、退くいていくぞ!その背を逃すなあ!」 戻っていく成実の隊を、連合軍の一部は進軍を止めて本軍から離れ、彼らの後を追ってくる。 しばらく走った後、成実は愉快そうに馬を走らせながら笑った。 「馬っ鹿だね〜。いやもーホント」 くすくす笑った後、一定の場所まできたら成実についていた数十体という騎馬兵はそのまま後方へ退いていく。 だが、彼だけはその場に足を止め、くるりと馬の鼻先をこちらに向かっている何百という敵へ臆することもなく向けた。敵兵は突然の彼の態度にぎょっとしつつも、一度ついた勢いは止まらずそのまま進む。 「伊達成実の首、討るのは誰ぞー!」 敵将と思しき男が兵達を煽る。 だがその男は次の一瞬、こちらを一人向いている成実と目が合った。 緩く微笑む彼の笑みは戦地でしか見せない鬼のような悪意に満ちたものだった。無邪気な成実など今はいない。どうやって殺そうか減らそうか。それだけが最優先として頭の中に存在していた。 男に悪寒が走る。彼もまた本能を持っていた。 その本能が危険を告げるが、遅かった。 「今だ。鉄砲隊、出ろ!」 成実の号令に、彼の背後にあった木々の中から騎馬兵と同等の数の銃口がこちらへ向かっていた男の方へ向いていた。 さっと血の気が引く音が、男の耳に聞こえる。だが、それもすぐ成実の声に消される。 「撃てーッ!!」 無数とは程遠い有数の発砲音。 しかし、やって来た成実を中心に左右に広がって潜んでいた鉄砲隊は必要な鉛で必要な数だけを撃ち取った。無駄など何一つない。男のすぐ横にいた歩兵が撃たれて倒れる。ばたばたと周囲の部下達も熱い鉛に貫かれてその場に横たえ、痙攣しながら死に迎えられていった。 「く…!皆の者、退けー!」 鉄砲は二度連続しては撃てない。 数を多く持っていれば交互に短時間で二つの鉄砲を撃つことができるが、成実の隊は本来の待機場所と二つの城にほとんどを置いてきたためそれができる数の鉄砲兵はいなかった。 それを知っている男は後退をしようと離れてしまった連合軍本流へ戻ろうとしたが、背中から追ってくる地鳴りに思わず振り返った。さっきほど退いたはずの騎馬兵が、成実を先頭にまたこちらへ怒濤の如く突進してくる。 騎馬兵達はみな鉄砲の背後に回って迂回しただけで、そのスピードを一つとして緩めてはいなかった。鉄砲が火を噴いたと同時に、再び地を蹴って前に飛び出てきたのだ。 もう先ほどからずっとこの繰り返しだった。騎馬兵が敵に突っ込み、引き寄せてくる間に鉄砲の支度は調う。引き寄せられた敵を撃ち、再び次の一団を誘いに行くと同時にその後処理を行いながら何十という馬が駆ける。 その志気は一向に下がることがなかった。持続する興奮に疲労することなく、成実の隊はその一隊だけで橋を渡ってきた大軍を半数近くに減らしていた。 「伊達に牙を向いたこと、あの世で後悔するんだな!」 成実は新しく変えた槍の矛先で、すれ違い様男の胸を深く貫いた。 そしてそのまま再び連合軍に横から押し進む。 彼の何者も恐れないような勇士に胸を打たれる敵将が一人いた。男は隊の後ろにいるのではなく、自ら先頭に立って成実の隊の方へ駆けていくと、彼の隊を示す旗を馬で擦れ違い様奪い取った。 「伊達成実殿とお見受け致す!」 旗を手にした彼はそれを足軽に手渡し、声を張った。 戦に夢中になっていた成実が手を止め、男に気付いた。そして彼の横に立つ足軽が、自分の旗を持っていることにも気付いて顔を顰めた。 「あの野郎…!」 敵意を剥き出しに、男の方へと馬を向けて駆け出した。 だが相手は胸を張り、引き続き声を上げる。槍を構える様子はない。 「我が連合軍、既に本陣前へと押し攻めております!観音堂が落ちるのも時間の問題。どうか貴殿の隊だけでも今は退かれよ!無駄にその命、落とすことなかれ!」 「あ?」 ぐんぐんと距離が縮まっていく中、予想外の男の言葉に成実はきょとんとした。 自分を気遣って撤退しろと言っているらしい。味方に褒められたことは多いし噂で敵陣からも多くの称賛は受けたことはあるが、こんな戦地のど真ん中で撤退を許すような威勢のいい男が連合軍の中にいるとは思っていなかった。 「はははっ!慈悲深い奴もいるもんだな」 成実は一頻り笑い、走らせている馬のスピードをもう一段上げた。 賛辞を送った男へ矛先を向けず横を通り過ぎ、その後ろにいた足軽の手から自分の旗を奪い返すと、距離を取ってから彼らの方を向いて馬の足を一度止めた。馬が四肢を動かして嘶く上で、成実は気持ちいいくらいの笑顔で笑った。 「お気遣いかたじけない!だがな、ここで俺が退いても本陣が落ちちゃ意味ねぇんだよ。俺は今の殿んとこ以外に就く気はさらさらない!だったらあいつのために死んでみせるさ!」 言い切って、彼は男に背を向けて再び前線へ駆けていった。 「何と素晴らしい…」 男は自分よりだいぶ若い成実が言い切った主への忠義に感動した。 何万何千という大軍で押し寄せようとも、どんなに強い武器を手にしていようとも、彼に勝てる気がしなかった。ここで彼を相手にするよりは、先にある本陣を攻めた方が随分楽そうだ。 「我が隊、この場は退くぞ!先の観音堂へ参ろう!!」 男は背後を振り返り、槍を高く上げて自らの隊に命令した。 彼の背後で、連合軍の他部隊が成実の矛先の餌食になるのを確信しながら。 彼の奮闘と連合軍を挟んで少し前方に進んだ反対側には、鬼庭の一団があった。 こちらもやはり少規模の隊だが、その精鋭といったら何百という軍隊に匹敵するほどのものだった。彼を先頭とした仲間は足が速く、短い距離であれば馬にも負けない。彼らの隊は誰に命ぜられたわけでもなく、自らの指命を敵の馬を潰すことと考えていた。 地面には水を撒き、泥場を作って馬の足を予め緩めておく。そこに幾重にも縄を張り巡らせ、足を引っかけて落馬するものが後を絶たず、横倒しになったその馬と人の上から後から来た同じ軍の馬の蹄が潰して通る。その踏み潰した者もやがて次の縄に足がかかり、同じく後方から来た者に踏み潰され死に絶える。 鬼庭隊が担当した場所はそのおかげで地獄絵のようだった。もはや原型が何なのかすら分からぬほどに敵兵の身体は潰され、身体の穴という穴から内蔵が腹を踏み潰される圧力に耐えられず飛び出ている。外気に晒された臓物すらまた踏み潰され、皮が破れて鮮血や腸が踏まれ、蹴られて周囲に飛び散る。 異臭が鼻を突く中、鬼庭は近くの木の上からそれらの罠を抜け、まだ前に進もうとする者たちの首を狙って手裏剣や死に絶えた敵将から取り上げた脇差しなどを投げ続けた。仲間達の半分は一つの縄が破られると再び同じ場所に縄を張り水を撒き、地面に広がる死体にも血にも何の感情もなく黙々と作業をこなしていた。 もう半分は風となって敵の間を擦り抜けつつ、兜の隙間を見抜いてその首の頸動脈にほんの僅かな斬り傷を付けて通過していた。人の身体は脆く、僅かな斬り傷だけで血は大袈裟に噴射する。その姿を見て別の者は恐れ驚き足を止めるが、その一瞬のうちにその者がまた次の餌食になる。 「水が足らんな。もっと撒け」 枝の上から鬼庭が言う。 木の葉に隠れる彼の姿を見る敵はいないだろうが、目に映ったとしたら驚愕するだろう。茶色い髪と刀鍔の眼帯、鎧兜は身につけていないが、その姿は伊達軍当主、政宗のものだった。太い枝の上に両足を乗せて屈み、腰の後ろから次々と暗器を取り出しては投げつける。 もしどうしようもなく本陣が危機に曝されて落ちそうになった場合、彼は自分が身代わりにと考えていた。突然このような一本橋と観音堂の途中に政宗が現れれば、連合軍の目は一気に彼に集まるだろう。その間に本物の政宗が逃げられればと思っての配慮だ。 部下が呟いて水を取りに飛び去る。 それと入れ違いに、別の部下が鬼庭の傍に降り立った。 「綱元様、失礼します」 「何だ」 「敵軍の先頭が本陣近くに」 「抜けられたか」 冷静に鬼庭が呟く。鬼庭同様、報告をする部下も落ち着いていた。 いくら成実が怒濤の如く攻め崩そうとも、彼がここで地面を紅く染めて数を減らそうとも、やはり連合軍の数の前にはその全てを取り除くことはできなかった。彼ら二人を始め他の伊達家臣達の隊を相手にしても、なお突き進んでいく連合軍の先頭は、既に観音堂付近に達しているという。 この戦はやはり無理があった。 「殿は撤退されたか」 「いえ。今だ観音堂にいらっしゃいます。しかし、今となっては撤退すら…」 部下が言いにくそうに言葉を濁した。 どうやら鬼庭が思っている以上に連合軍は本陣に近づいているらしい。本陣の周囲は小十郎の伝令によって集まってきた周囲の家臣達が固めていてそう簡単には崩れはしないだろうが、政宗に直に危険が及ぶのは避けたい。 「ここで討たれるよりは一時本宮城へ戻られた方がよかろう。拙者は本陣に向かおう。ここを頼む。攻めの手を緩めるな」 「御意」 手にしていた暗記の類を腰や懐に収めると、鬼庭は木の幹に引っかけていた黒衣を身にまとって枝から飛び降りた。 敵の目を欺くためと変えている政宗の容姿は目立ちすぎる。本陣に着くまでは黒衣を纏うが、到着したら交換するように彼が鎧兜を着込んで政宗を振る舞い、その間に本物の政宗を本宮城へ逃がす。 問題は撤退できる時間と隙があるかどうかだ。 「片倉殿と親父殿で撤退を補佐できればいいが…」 本陣にいる部隊は政宗の本隊の他に彼ら二人。 本陣前にいる隊すらも鬼庭隊がそうであったように抜け出る者が必ずいる。抜け出た敵兵の数はどれ程だかは分からないが、恐らく二つの部隊では難しいだろう。 戦地を駆ける彼の鼻を血の薫りが擽る。無意識に肺が紅い空気を欲して、深く呼吸をした。鉄の薫りが何とも心地いい。そう考える自分に苦笑した。 戦人はどこか狂っていなければ務まらない。成実も彼自身も戦地ではおかしくなる。他の家臣達もそうだった。ただ本陣にいる政宗と、それから傍の小十郎。あの二人は狂いきれないようだった。 政宗は器が広すぎて、有利だろうが不利だろうが常に客観的な感がある。それに加えてあの穢れなさ。もう家督を継いで一年経つが、戦人としての実力は大いにあるはずの政宗はいつまで経っても良くも悪くも狂えない。 大内に関係する者たち全てを撫で斬りするような行動をとったが、あれはきちんとした理由があってのことだ。鬼庭に命令を下した時の政宗の顔は哀しみだけが浮かんでいた。僅かでもいい。血に興奮し刃を手にして震え、敵に突き刺してその死を心の何処かで喜ぶことができなければならない。 対して小十郎。彼もまた狂わない。政宗を守り必要とあればその行動は情け容赦ないものではあるが、日頃と変わらず彼が戦地で表情を変えることはない。人を殺す瞬間、人はその感情が恐怖であれ喜びであれ哀しみであれ、嗤うものだ。頬の筋が引きつり口元が緩む。 それを「嗤う」と表現するのは鬼庭だけかもしれないが、小十郎は一度として嗤わない。彼の思考は多少のことでは崩すどころか揺るがすこともできず、あっさりと必要事項と仕手的を排除する。これは素晴らしいことのように思えて、殺しに慣れている鬼庭から見れば危うかった。 正常な者よりも、狂った者に力が与えられるのが戦場だ。立場が上である者に対して失礼な物言いになるが、鬼庭はあの二人が戦地で実力を発揮したとしても不安でしかたがなかった。 それに本陣にいるのは彼ら二人だけではない。 「親父殿…」 鬼庭は紅い地面を蹴り、観音堂へ向かって走った。 |
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