人取橋合戦・弐 >>   月下の涙 第七章

 戦は日が傾いても続いた。
 夕暮れに次第に世界が朱く染まる中、本宮条にいる政宗は気が気ではなかった。いつものように水を浴びても香を焚いても、心はここにない。水から上がった彼を出迎える者も襖を開ける者もいつもと違う。絶えず彼の傍にいる側近がいないだけで、天地がひっくり返ったような途轍もない違和感があった。
 自分がこんなことをしている間にも、家臣達は戦地にいる。すぐに装備を調え体勢を立て直し、例え負けると分かっていても反撃に出なければならない。どうせ散るのなら最期まで誇り高く。
 空いた時間をただ待っていることができず、平常心を取り戻そうといつも通りの行動を取って潰していたが、返って気が急ぐだけだった。悪寒にも似たぞわりとした感覚がもうずっと政宗の背中を撫でていた。
 政宗は兜だけを脱いだ姿で戦の準備がなされている庭に出た。成実が本当に自隊の三分の一をこの場に残しておいてくれて、もし本陣が落ちたとしてもまたこの場所で敵陣を待ち構えられそうだった。
だが、残念ながら政宗はここに留まる気はない。今この状況で観音堂へ戻るのは自虐好意としか言いようがないが、彼はそれをしようとしていた。何人もの家臣が考えを改めるように言ってきたが、こればかりは受け入れられない。
「遅いッ!まだ出陣の準備は整わないのか!?」
 鉄砲の火薬はあるのだが、槍の数が足りないようだった。
 忙しなく周囲を駆け回っている部下達に渇を飛ばしていると、何処にいるのか分からない黒脛巾の頭領、月宮の声が焦る政宗を嗜めた。すぐ耳元で聞こえるような声だが、その姿は彼の周りにはない。
「殿、どうか落ち着き下さい。今の所まだ観音堂は落とされておりません。この時間まで保っているとなれば、恐らく日が沈むまでは凌げましょう。今貴殿が焦っても無意味でございます。それよりは今という時を最大限活かし、御休下さい」
「寝てなどいられるか!」
 興奮した言動で、政宗は叫んだ。
 月宮の言葉は正しいと頭では分かっている。その方が絶対に効率がいいことも有意義なことも分かっているのだが、今は悪い冗談にしか聞こえなかった。兜を脱いで軽くなった首を振り、片手で額を覆う。
「鬼庭殿、成実…。…小十郎」
 伝令が絶えず戦場の報告を送ってはくるが、それにはどうしても時差がある。
 こちらが古い情報を受け取っている今この一瞬に、彼らの身体を鉛玉や槍の矛先や刀が貫いているかもしれないと思うと、全身から血の気が引いた。輝宗が義継によって後ろから刺された際のあの胸から生えた生々しく紅く輝く刀。翼を持ち自由に空を舞うことのできた宗里から一瞬で空を奪った小さな小さな鉛玉。それらが脳裏に甦る。
 今彼らが死んだらどうすればいいか分からない。しかし今いる場所は自室でもなければ、彼の弱さを知る小十郎すら横にはいない。無理にでも政宗は凛々しくいるしかなかった。彼の虚勢はもはや当たり前になっており、無理にという意識すらもなく果敢な姿を振る舞い続ける。
 しかし、自分を理解する者がこの場に一人としていないと思っている政宗の傍に立つ影の男もまた、長年輝宗に仕える傍で幼少の頃より政宗を見てきた男だった。月宮は自分に主が心を開かないと分かっているため、彼を慰めるようなことはしない。
「では、せめてお座りに。立っているだけで人は疲労するものです」
「…ああ」
 元より用意されている腰掛けに座り、政宗は深いため息をついた。
 漆の鎧は通常のものより軽量化されているが、それでもやはり重みになる。脱げばよかろうに、彼はすぐにでも戦に出られるようにと水を浴びてすぐに鎧までまとっていた。
 腰掛けても顔を覆ったり足先を鳴らしたりと落ち着かない主を心配して黒馬がゆっくりと彼に歩み寄り、いつも以上に政宗の傍に寄り添った。黒馬の首横をそっと撫でると、手持ち無沙汰の政宗は僅かに心が軽くなるのを感じた。
 ようやく少し心持ちが良くなる動作を見つけ、政宗はそのまま黒馬を撫でていた。しばらくすると、完全に落ち着きが戻ってきて、月宮の言う通り今できることをすることにした。
 観音堂に戻ろうとしていたが、よく考えれば迎え撃つにしてもあの場所よりこの本宮城の方が何倍も自分たちに利がある。月宮は、今日くらいなら観音堂は持つだろうと言う。視界が利かない夜になれば連合軍も退くしかないだろう。
 政宗の中に新たな布陣が浮かび上がる。夜のうちに全軍をこの場所に集め、明日迎え撃つ。それが今考えられる最善の方法に思えた。
 それに、彼らと共に戦死できるなら本望だ。小十郎が傍にいれば、必ず辱めを受ける前に自分を殺してくれる。
「…。誰か、紙を持て」
 近くにいた者に紙と筆を持ってこさせると、政宗は家臣達に明日はここに立て籠もることにするという主旨の手紙を送ることにした。
 彼の性格がそのまま出たような細く繊細な文字で用件と労いの言葉を綴る。
「月宮。黒脛巾にこれを」
 十数枚の文を両手で誰もいない正面へ差し出す。
 また政宗が瞬きするほんの一瞬の間にひゅぅと風が吹き、次の瞬間には月宮がそこに頭を垂れて伏せていた。
「あいつらにすぐ送ってくれ。日が沈んで連合軍が撤退したら、すぐにでもここに来るように。明日はここを本陣としようと思う」
「仰せのままに」
「…」
 政宗は手紙を手渡すと、しばらく月宮を見ていた。
 消える所を見たかったのだが、やはり時間に負けて瞬きしてしまう。目を開ければやはり月宮は消えていた。だが月宮が手紙を渡しに走るのではなく、あくまでも移動するのは彼の部下で黒脛巾をまとめるリーダーである彼は政宗の傍にいるはずだ。
 その証拠に、言葉を発すればすぐに返ってきた。一体何処に隠れているのかは知らないが、たった数秒のうちに部下に手紙を託し、戻ってきたのだろう。
「酒席の準備でもしよう。最期の晩餐だ、盛大にな。城にある酒全てをここへ持ってこい。戦から戻ったあいつらを心から労おう」
「…」
 流石にこの発言に月宮は同意しなかったが、最期になるのは彼も分かっているはずだ。
 政宗の命令に戦の準備共々、酒席の支度も同時進行される。赤い上質の布を庭の一角に敷き、周囲を横断幕で囲って花や刀や家宝を飾る。政宗の座る位置の背後に代々続く彼の漆の刀が置かれ、兜が高々と飾られた。
政宗は場所を移してそれを腕組みし、遠巻きに立って見ていた。
 輝宗から受け継いだ伊達家をこんなに早くに潰してしまうとは、あの世でさぞ叱られるだろうなと考えていた。そしてそれが妙に嬉しい。生きていても死んでいても、彼の傍にいられるのならそれでよかった。輪廻転生に従いまた生まれ変わる時、間違いなく輝宗の傍に自分が生まれると、政宗は何か確信めいたものを持っていた。
 申し訳ないのは家臣達だ。しかし、これもまた運命だと考える。きっと彼らともまた生まれ変わった先で出逢うだろう。それならば、現世に未練はなかった。
「殿。こちら酒蔵にありました銘酒でございます。一口お試しあれ」
 ぼんやりしていた政宗の背後から、酒席を設けていた男の一人が赤い杯を両手に持ち、恭しく頭を下げて政宗に差し出した。
「ああ…」
 政宗は感謝してそれを受け取る。
 透明な酒は波紋をいくつか生み出しながら、小さな杯の中を美しく回っていた。そう言えば随分昔、酒が飲めるようになった頃に外に出ていたら杯の中に紅葉が落ちてきたことがあった。
あの時と同じように紅葉でも落ちては来ないかと上を向くが、日が沈みかけているそこには紫色に染まる空があるだけだ。物寂しさを覚えて、彼は自虐的に口端を緩めると、杯に口をつけた。
一気に煽ると、喉が一瞬焼けるような熱さを覚える。
「…美味いな。これならあいつらも喜ぶだろう。特に成実とかな」
「成実殿のため、大きな杯を用意しておかねばなりませんな」
 男に杯を返しながら大酒飲みの家臣の名を出すと、周囲から響くような月宮の声がそれに返した。
 その言葉に政宗は苦笑する。
「あぁ、そうだな。月宮、お前も今晩は闇から降りて来い。最期の夜だ、皆に紹介しよう。今までお前の存在に気づけた者などいないだろうからな。俺と父上と鬼庭家、それから小十…」
 そこではたっと政宗は言葉を止めた。
「…。…おい。月宮?」
 顔を上げて周囲を見回し、姿の見えぬ月宮を捜す。
 どうせ見つからないことは分かっていたが、彼は今のこの状況にとても違和感があったような気がした。政宗の目の前には、未だ酒を持ってきた男がいる。他人がいるのだ。普通月宮が政宗の前に現れるのは、周囲に彼らを認知しない者がいない場合だけだった。それなのに、今日は違う。
 それに酒を持ってきた男も変だった。空中から響くような月宮の声を聞いても驚かず、相変わらず僅かに微笑む程度で表情に変化はない。
 急に男が不気味に思えて、政宗は彼から一歩後ろに下がって片腕を振った。
「もういい、下がれ。酒はそれでいい」
 男は一礼して背を向ける。
 あんな下っ端の部下を不気味に感じるなど有り得ない。やはり一度回復したと思ったが神経は相変わらず張りつめられているらしい。政宗は先ほどと同じように額に片手を添え、もう片方を胸に当てて心音を確かめた。
 酒がこんなに早く回るとは思えないが、心音は思ったよりも随分早かった。
「…座るか」
 この場所を離れようとしたが、一歩足を踏み出すといつもの感覚と違う。
 ふわりとした水の上を歩いているような浮遊感があった。気分が高揚しているようだ。本当に休んだ方がいいかもしれない。一度疲労を感じたからか、瞼も重くなってきた。だが、こんな状況で寝ているわけにもいかない。
「政宗様。明日のことですが」
 歩き出す政宗を、月宮の声が周囲を囲んでざわつく木々の葉のように響いて追ってくる。
「何だ」
「本宮城に本陣を構えることは皆に伝えましてございます。しかしこの場も明日持てばいい方かと。つきましては御身…、政宗様は一旦この場を離れ、今晩中にでも更に南の岩角城へとお退き下された方がよろしいかと」
「は…っ。俺が岩角へか?」
 月宮の発言を政宗は鼻で笑った。
 この場で、この状況で。こんなにも愉快な会話ができる奴だとは思わなかった。
「面白い冗談だな、月宮。俺がこの場も残し、またあいつらに場を任せて逃げるのか。また誰かを犠牲にしてか?ははは…は…。…っ!」
 力無く笑っていた政宗のこめかみから、途端に激痛とも言える頭痛が走る。
 ぐらりと身体のバランスが傾き、進めていた足を止めて近くの木によろけ寄ると片手を着いた。思考を全て持って行かれそうなほどがんがんと大きく頭に響き、同時にじわじわと意識を飲み込んでいく。
正確にはそれは頭痛ではなく、強力な睡魔だった。だがあまりにも強すぎてそれが毒か何かだと一瞬思ってしまうくらいだ。
「…!」
自分を今襲っている異常な“何か”が睡魔だと気付いた時、政宗ははっと顔を上げてさっきの杯を持ってきた男を振り返った。
 男はさっきとは違い無表情で彼に向かって片膝をつくと、深く頭を下げていた。忠誠を誓うようなその行為に、彼が黒脛巾の一人だと悟る。酒の中に眠気を誘う薬が入っていてあの杯をこの男が持ってきたとなると、全ては月宮の意思となってくる。
 そうなると、今の冗談は一気に冗談から現実の案として政宗の前に突きつけられた。
「ふ、ざ…っけるなあ!!」
 眠気を吹き飛ばそうと精一杯怒鳴り、勢いよく腰から刀を抜いて振り返ると、切っ先を男へ向けた。
本当は月宮へ向けたかったが、姿がないのではそれもできない。彼は今も常日頃と同じように何処か政宗には察知できない場所で、淡々とその言動を見ているのだ。
「止めろ、止めろ月宮!止めろ!!撤退など誰がするか!今すぐ覚醒薬を寄こせ、俺はこの場から離れる気など微塵もないぞ!この俺に指先一つでも触れてみろ。貴様などこの刃で切り刻んで…っ!」
 憤る政宗に、睡魔は容赦なく襲いかかる。
 もう左の瞼を開けるのすらつらかった。頭が鉛のように重くゆらゆら揺れる。両足で身体を支えきれなくなり、崩れ落ちそうになるのを、刀を地に突き刺して背を丸め、顔を顰めた。
「誰も…そのようなこと…。一度たりとも頼んでなどいないだろうが…!」
「全ては片倉殿のご策案」
「!」
 今まで風に乗って耳に届いていた月宮の声が、すぐ目の前から聞こえた。
 顔を上げると一瞬前までいなかったはずの彼がそこにいる。月宮の肌で見えるのは鋭い両目とその周りの皺が刻まれた皮膚だけ。それ以外の全ては黒い衣で覆われていて、既に暮れかけて紺色になった空気と相まって溶けていた。その背後にいた杯を持ってきた男も、いつの間にか彼と同じような黒衣になっている。
「小十郎だと…?」
 驚愕した顔で政宗が何とか顔を上げ、まっすぐ目の前に立つ彼を見上げた。
 戦が始まる際に小十郎が月宮へ差し出した頼み事の一つがこれだった。今の戦の状況や政宗の撤退など、全てを読んだ上での布石だった。この薬も小十郎から手渡されたものだろう。情け容赦ないこの睡魔に、政宗は覚えがあった。
幼少の頃も身体に鞭を打って行動しようとした際に過去何回か盛られたことがある。
「御休下さい、政宗様。既に船は用意されております。瀬戸川を進み、岩角城へと参りましょう。その身は我らが守ります」
「ぐ…っ。く…っぅ」
 奥歯を噛みしめ必死に耐えようとするが、無情な薬の前には無力だった。
 どんどん意識が薄れていき、その手が刀の柄から離れる。同時に、今度こそ政宗は地へと崩れ落ち膝をつくと、そのまま鎧の音を発てて横に倒れた。幸いに木の根に当たるその場は草が敷き詰められ、鎧をまとっている身体と違い外気に晒されている顔をも砂利から守った。
「何故だ…っ」
 朦朧とする意識の中、地面に突き刺さった刃の向こう側にある月宮へ悔しそうに呻く。
「貴様ら黒脛巾は俺に忠誠を誓うのではなかったのか。当主のための部隊ではなかったのか…!」
「ええ。その通りです」
 月宮の声はあくまで静かだった。
 両目を細め、その場に後ろの男と同じく膝を突く。頭を下げると、横たわる政宗を労るような穏やかな双眸でそっと口を開いた。
「伊達家当主のため“だけ”の、黒脛巾です。…今は御休を」
「…っ。くそ!くそおおっ!許さん!許さんぞ小十郎ぉ!!」
 激怒にかられて背を丸め、草を握り潰していたが、やがてふっと政宗の意識は闇に飲まれていった。
 静かな寝息を立て始める主の口元に手を添えて呼吸の深さを確認すると、月宮は立ち上がり背後の男を肩越しに振り返った。
「飯夜の首尾は?」
「もう間もなくにございます。丑四ツ時を予定しております故」
「よし。失敗はないとは思うが、油断はならない。船を出せ。殿をお連れするぞ」
「は」
 男は月宮の横を通り、倒れている政宗を抱え上げた。
 人一人を持ち上げるのも大変だろうに、鎧を着けた彼の重さは相当なものだろう。それを何の抵抗もなく軽々と両腕に抱く。
 月宮は酒席に飾られた政宗の兜と刀を取ると、箱に入れてそれを持った。
「岩角城へ!」
 空いた右手を船の用意されている川へ向かって振った。
 本人の意図とは無関係に、その身は本宮城の更に南に位置している岩角城へと移されていった。