人取橋合戦・参 >> 月下の涙 第八章 | ||
政宗が眠りから覚めて、もう十五分近く経つ。 意識が戻っても、目を開けなかった。左目を閉じたまま呼吸の深さもなるべく変えないようにし、視力を覗いた他の感覚で予め周囲の気配を察する。物音は何一つしない。風の音すら全く聞こえないと言うことは、恐らく窓のある部屋ではないだろう。 人の気配もないが、油断はならない。自分を見張っている者がいるとしたら、どう考えても黒脛巾だ。あくまで眠ったふりをし続け、得られる情報を頭の中で整理する。 横になった身体を包んでいるのは紛れもなく布団だろう。流石に服は変えられてはいなかったが、鎧も兜も何もない。室内に上げられたと言うことで、あの膝丈まである漆の靴も脱がされていた。 右目にあった刀鍔の重みも今はない。これも取り外されているのらしい。 (月宮の奴、本当に岩角城まで俺を戻したか) 内心でため息をついた。もう怒る気にもなれない。 まさか黒脛巾にこのような扱いをされるとは考えても見なかった。だが、よく考えれば家督を相続したその日に現れた月宮率いる黒脛巾は、政宗をと言うよりは伊達家当主のものなのだろう。 そして当主の命令にも確かに動くが、それは当主の生存が最前提。この旨を、彼は今身を持って理解した。要するに黒脛巾は、政宗に危険が及びすぎる策には協力できないというわけだ。 (今は何時だ?明け方ではないだろうが…) その時、何枚かの襖を挟んで誰かの足音が聞こえた。 そのまま狸寝入りを続行していると、やがて足音は側まで来る。足音の他にも着物を畳に擦るような音が聞こえていた。 「失礼いたします」 目を開いていない政宗には勘でしかなかったが、この部屋の襖をその誰かが開けた。 その声は少年のもので、彼の寝ている側まで来ると枕元に持ってきた何かを置き並び始めたようだ。 (小姓か) 酒か煙管か濡れ布か食事か…。 何にせよ、起床した直後の、政宗の機嫌を少しでも宥めておこうとしてのことだろう。眠らされる前にあれだけ憤ったのだから、彼が起きてすぐに激怒するだろうと予想するのは当然のこと。この少年は随分な外れくじを引かされただろうに、健気にもその怒りを最低限に抑えようとしているらしい。 コト…。 陶器を置く音がした。 それを聞くや否や、政宗は目を開けた。 瞬間的に四肢に力を送り片手で布団を払い除け身体を起こす。 思った通り小姓だった少年の驚愕に満ちて息を飲むのを無視し、立ち上がると同時に今聞いた陶器の正体を一秒にも満たない僅かな時間で探し当てる。 てっきり酒を入れた器かと思ったが、その隣にある陶器でできた朱色の酒杯の方に先に目が行き、片手を伸ばして手にするとそのまま腕を振って前方の壁に容赦なく投げつけた。 「うわ…!」 音を発てて杯が割れるに、少年が両手で頭を庇うように丸くなった。 その横を、布団を蹴って今割れて破片となった杯の方へ政宗は駆け出す。上質の敷き布団は足場としては柔らかすぎて滑りそうになったが、重心が前に傾いたことによって駆け出しが思ったよりも早くなった。 周囲の部屋を見回すと、部屋の襖に竹とその周囲を飛ぶ雀の絵が描かれていた。 (竹の間。とすれば一番近い窓は…) 岩角城の構造を瞬時に脳内に展開させる。 「東か!」 政宗にとって自国の土地や場所、城の構造といったものは立派な一つの知識として埋め込まれていた。畳の上に散る杯の破片のうち大きいものを一つ拾い、片足で歯止めを利かせると方向転換をして再び少年の方を向いて、駆け出す。 丸くなっている少年と布団を過ぎ去り、隣の部屋へ繋がる襖を文字通り蹴り倒して進んだ。 だが、彼が襖を蹴り破るのと同時に、次の部屋の天井から忍装束の男が一人落ちてきて行く手を阻むように正面に腰を落として構える。黒脛巾の一人だろう。やはり無断で運んだのでは飽きたらず、見張られていたようだ。 「退けぇッ!!」 政宗は止まらなかった。 猪のように突っ込むが、手にしている武器になるものといえば杯の大きな破片一つ。それを小刀のように右に構え、スピードを緩めることなく男に突っ込んでいった。狙うは腹部。容赦などするつもりはない。元より、こちらが不利なのは重々承知だ。本気で行かないとまた眠らされ、今家臣達が集まりつつある本宮城には戻れなくなるだろう。 彼が破片を持っていることに気付くと、男は両腕をクロスさせて腹部を守った。男は装束の下に小手でもしているのか、腕に破片の切っ先が当たると同時にキィンッと甲高い音が鳴った。 「…っ!」 政宗の一撃は刃を扱うような繊細な流れや加減など微塵もなく、力任せに殴りつけるような一撃だった。予想外の力だったのか、覆面に覆われた男の顔のうち露出されている目元が歪む。 それに、本来この男は本気で政宗に立ち向かえるわけがなかった。足止め役だろうが、主人である政宗に対しては無駄に傷つけぬよう念頭に置いているだろうからいつも通りに動けない。 男が顔を歪めているうちに、政宗は破片を持っていない左手を男の股下の畳に着くと、ダンッ!とこちらも力任せに両足を跳ね上げた。勢いにのって背中を反るようにした倒立体勢から手首と腰を捻り、強引に回転を生み出して臑で男の横顔を狙う。 「貴様が寝ていろ!」 「!?」 次の瞬間、男の左首へ政宗の右足が入った。 ごぎゅっと鈍い骨の音が聞こえて男が衝撃に眼球を見開いたが、その直後にもう一方の宙に放られた左足が今度は男の頭部を続けざま強打する。 「ガッ…ぁ!」 死んではいないだろうが、相当上手く入った。 男が倒れるのと同時に、政宗は倒立から両腕に力を入れて跳ぶと身体を戻し、そのままやはり勢いを緩めることも男を振り返ることもなく当初の目的通りこの部屋を抜けて次の部屋へと飛び込んだ。 思った通り、次の部屋には窓が見える。空は黒。未だ星は美しい。どうやら思ったほど時間は経っていないようだ。夜が明ける気配も全くない。 政宗は躊躇うことなく障子に手を添え窓辺に足をかけると、外の瓦へと飛び出した。 外気が身を包み、髪が後ろに流れる。覆いのない右目にすっと風が通って体内に入っては右半分の顔の筋肉を収縮させた。 場所は城の三階。ここならば何とか無理をして瓦を伝えば降りられる。 慎重に行けばいいものを、政宗は気が急いでいて安全に降りられる場所など探すつもりはなかった。瓦の上を素足で斜めに駆けて屋根の端へ来ると、躊躇うことなく二階の瓦を目指して宙へ飛び出した。 高さは相当ある。宙を舞うという行為は、一瞬だが自分を包む時間がいつもよりもゆっくりと刻むように錯覚させた。冷たい外気に晒されて城の周囲を見回すと。 「…!」 城内の敷地に愛馬である黒馬が繋がれていた。 てっきり、黒馬は重荷になると本宮城へ置いてこられたかと思ったが、月宮は政宗と一緒にあの愛馬も運ばせたらしい。いい意味で予想を裏切られ、思わず嬉しさに口元が緩んだ。 「月雀―!!」 政宗が名を呼ぶと、ぴくりと黒馬が反応して鼻先を上げる。 視界の先には月を背負って城の瓦の上を飛ぶ主人が見えた。それを見た途端、黒馬は急に忙しなく四つの蹄を動かすと頭を振ったり身を動かしたりして、轡と繋がれている柱を懸命に外し出し始めた。 「…っ」 政宗が二階の瓦へ着地すると同時に、足裏に痛みが走った。 着地した際に足を着いた場所が悪かったのかもしれないが、今はそのようなことに構っている暇はない。続けて一階の瓦へと飛び降り、地面に達した時には既に黒馬はどうやって縄を解いてきたのかは知らないが、政宗の傍まで来ていた。 「月雀」 政宗は黒馬の鼻先に手を添えると、首元へ頬を寄せた。 だがすぐに鐙に足をかけて鞍壺へ跨ると、手綱を引く。馬上に跨ると、先ほどまではなかった小十郎に対しての怒りや彼らへ対しての不安が再び胸の中を渦巻いた。 「本宮城だ。道は覚えているな、急げ!」 鎧もなければ兜もない。靴すら履いていない彼は月明かりに照らされる青白い世界を一人、駆け出した。 通常より何倍も速く風のように黒馬は黒い空気を鼻先で切って走り続けた。蹄の音は低く颯爽としている。手綱を握る政宗の視界には夜しか映らず周囲の景色所か足元さえ見ることはできないが、黒馬は迷うことなく明日の準備を備え始めている本宮城へと向かった。 やがて前方に本宮城のシルエットがうっすらと浮かび上がってくる。 政宗が南から本宮城へ近づく途中、それと同じく瀬戸川館から北上して来た成実の一団と鉢合わせした。だが成実を始めほとんどの者は彼が本宮城の中にいると思っているし、単身で岩角城から来るようなことは想像できなかった。 心身共に睡魔と疲労でどこかぼんやりと先頭を移動している成実の姿を見つけた突端、政宗の中にカッと怒りが電撃のように走った。 「成実ぇえーッ!!」 叫ぶと同時に手綱を振るって、黒馬のスピードを上げる。 戦が始まる前の最初にそれなりの数を分け与えたはずの成実の隊は畠山対策として二の丸城手前に加え、本宮・岩倉城と分け、加えて昨日の戦でそれでなくても少ない兵数が激減し、信じられないくらいの小隊になっていた。その事実がまた政宗の中に怒りを生む。 「ん…?」 顔を上げて声のした方を成実は向いた。 彼が顔を上げた瞬間、空気を振るわせる殺気が津波のように彼を飲み込もうと正面から押し寄せてくる。 「…!」 反射的に双眸を細め、瞬時に成実も別人のように殺気を膨らませて片手にしていた槍で横腹を庇うため柄の部分を横にして腰元に下げた。 政宗が馬の背中を蹴って折った右膝を、成実の脇腹に叩き込むために宙を跳んでいた。ガン!と鈍い音で槍の柄に政宗の容赦のない膝が当たる。 びりっと槍が膝蹴りの衝撃を霧散できずに痺れが左右に広がり、腕にも上ってくる。遅れて成実の視界が目の前の映像を捕らえた。 「え?あ…っ。梵天!?」 「この…っ」 殺気の相手に目を丸くする成実は一瞬油断するが、政宗は膝を槍の柄に振り上げたまま反対の素足を地に着けてバランスを保つと、相手の顔面を狙って右腕を振りかぶった。地に着いた途端また微妙に足へと痛みが走ったが、無視して意識を右腕に集中させる。 「馬鹿者―ッ!」 「ぅあッ!」 政宗の右腕が成実の頬を打つ。加減なしの拳に、成実は振り下ろされた衝撃のまま右へ傾くように背中から倒れて落馬した。 「…へ?」 部下達のどよめきの中、地面に落ちた彼は状況が把握できないまま仰向けに倒れ、呆けた顔で目を瞬かせていた。空に星と月が見える。それを背景にザッと仰向けになっている彼の腹を跨いで、肩で息をする政宗がと目が合う。 鎧の類を何一つ身につけておらず、あれほど着けずに人前に出るのを嫌がっていた右目の刀鍔すらない。仰向けに倒れている成実からは見えないが、臑当を含んだあの硬い靴も履いていない。 唐突に現れた主に、成実は思考が追いつけずにいた。 「梵天?え?何で城外に出…っうお!」 疑問を素直に尋ねようとしたが、その前に政宗が前に屈んで強引に成実の首元を掴み上げて上に持ち上げた。 自らの顔を息がかかるほど成実の鼻先に突きつけ、すぅと一度息を吸った。それが聞こえたので、状況反射で成実は叱られる子供のように肩を上げて目をきつく閉じる。 「自分が一体何をしたか分かっているのか!!」 「…っ」 怒声がものすごい勢いで風圧となり、すぐ鼻先から飛んでくる。 「命令違反だけでも許されるものではないと分かっていて隊を裂いたのか?巫山戯るなッ!!貴様にそこまで権利を与えた覚えは毛頭無い!それを勝手に本来の配置場所から移動した挙げ句に四つに分けるとは、単独行動も体外にしろ!いつ俺がそのようなことを命じた!腹でも裂いて謝れ!!」 「〜っ」 怒声があまりに近すぎて、成実の鼓膜は痺れていた。 くらくらと平衡感覚もままならず、頭を揺らしながら何とか政宗の肩に片手を置いて宥めようとする。今さっき殴られた左頬もずきずき痛む。 「ちょ、ちょっと待てって…。顔近すぎて声量が半端な…」 「黙れ!」 「痛ってえ!」 反論どころか口を利くのも許されず、成実は襟首を掴まれたまま再び二発目を喰らう。 それでも政宗の怒りは収まることはなく、成実の上半身が持ち上がるほど腕に力を込めて前屈みになっている自分の目線の高さに合わせた。 「貴様一体俺が何を考えお前をあの場所に配置したと思ってるんだ!それをいつの間にか前線?はっ!どれほど自らの力に自惚れてると言うんだ!貴様は何か?隊を四分割しても自分なら連合軍に勝てるとでも思ったのか!?」 「自惚れてなんかないって!ただ心配だったから少しでも力になろうとして俺なりに最善策を考えてお前の守りを強化しつつ攻めもした方がいいと…!」 「それ自体が俺の意を欠片も汲んでいない証拠だと言っているんだ!」 喧々囂々。 さっきまで静かなはずだった夜に、風の音も木々のざわめきも遮って二人は声を張り上げ言い争った。半ば政宗の一方的な叱咤だったが、成実の今回の行動を考えれば当然のことだった。 誰よりも先の戦いで功績を上げ、貢献したことは政宗も認める。成実の先鋒崩しがなければ間違いなく観音堂は一晩も保つことはなかっただろう。だが、だからと言って決して推奨すべきことではない。 成実の抱えていた小隊は言い争う二人にどうすればいいか戸惑い、おろおろとその様子を遠巻きに見ていた。だが、やがてその場に一人の人物が現れると誰先にというわけではなく自然と左右に開いて、先頭で取っ組み合っている少年たちの元へ道を開けた。 「お二人とも、もうお止め下さい」 静かで低いたった一声に、二人はぴたりと言動を止める。 二人というよりも、主に政宗が止めたことにより成実も受け答えを止めたといった方が正しいかもしれない。 部下達の間から現れたのは、白い衣の小十郎だった。いつものように表情はなく、いつものように声は低く、いつものようにそこに気配も音もなく立っている。 「小十郎…」 忌々しい者でも見るかのように、政宗は奥歯を噛んで成実を突き飛ばすようにその襟首から腕を離した。 屈んでいた身体を元に戻すと後ろ足で成実をもう一度蹴り、現れた小十郎の元へと大股で歩いていく。小十郎は会釈をするだけだった。 彼の両足が素足だということにようやく気付いた成実がはっと目を見張った。よく見れば政宗の足元はすっかり泥と土で汚れていて、臑が所々擦り切れて血が滲んでいる。今まで目の前にそびえる本宮城の座敷にいたとばかり思っていたが、そう言えば彼が走ってきた場所は正門とは別の場所からだった。 「おい、梵…」 パンッ! 「!」 顔を上げた成実の目に飛び込んできたのは、小十郎の横面を叩く政宗の姿だった。 小十郎が僅かによろけ、足場を動かして留まる砂利の音が響いた。 頬を打つ音とその光景に、成実を始め一同はぎょっとして息すら止める。この若い当主と側近は、今まで常に一組であって仲違いをした数など片手で足りる。その数少ない中でも、政宗が手を挙げたのは今まで長い間傍にいた成実ですらも一度として見たことのない光景だった。 一瞬にして静寂が戻り、誰もが言葉をなくす。 「貴様のご託は後で聞く」 「…は」 腕を伸ばしたまま怒りを灯した左目で政宗は小十郎を睨み、絞り出すように言った。それに小十郎が左頬を赤くしたままやはり無表情で頭を下げる。 自ら一区切りを着けた政宗は腕を振り、呆然と見つめていた周囲の者に向けて声を張った。 「何をもたもたしている。城へ入れ!まだ明日があるのだ、一刻も早くその身を休め装備を調えろ!時間を無駄にするな!」 彼の声に、ばたばたとその場にいた成実の隊は本宮城の正門へと消えていった。 周囲が撤退する中、政宗は今だ地面に腰を下ろしている成実へと片手を腰に添え、肩越しに振り返る。 「お前も早く中へ入ってとっとと休め。美味い酒が用意されているはずだ。睡眠薬など入っていない普通の酒がな」 「…」 「あ?…ん。あぁ、そりゃ嬉しいけど…」 気まずそうに成実が頬を掻く。 何か声を掛けようとしているのが見え見えだが、敢えて無視をして政宗は顔の向きを正面へ戻した。するとさっきまで立っていた小十郎が足元に屈み、自分の履いていた雪駄を政宗の方へ揃えて置いていた。 政宗はそれを無言で蹴り飛ばし、少し離れた場所で様子を見守っていた黒馬を呼ぶと素足のままその上に再び跨って本宮城の正門へ向かっていった。放られた雪駄が離れた場所に虚しく裏を向けて転がっている。 「…恐」 小さくなっていく政宗の背中を見て、成実がぽつりと呟いた。 その場に胡座をかくと顔を上げ、残された小十郎へ視線を向けた。距離はあるものの、屈んでいる彼とは向かい合うようにして同じ高さに視線がある。彼もまた、去っていく政宗の背を見つめていた。 やがて小十郎は右手の指先でついさっき政宗が立っていた土に触れた。そこにはよく見ないと分からない程度の紅い小さな染みと膿と思しきものが細かい砂の上にできていた。ただ無言ではそれを眺めている。 「何であんなに怒ってんだ?つか、何であいつ素足なんだよ。いくつか擦り傷があったっぽいけど…」 「…」 何も応えず雪駄も拾わず、白足袋のまま彼は正門の方へ戻っていった。 |
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