月の影 >> 月下の涙 第九章 | ||
「……うるさい…」 「そうして貴殿は今この時、御身を支える木が無くなり、悲観して死を望んでいる。貴殿に私を咎める資格がございますか?私だけでなく、殿ご自身も断言できましょう。大殿は今殿がなさっているような無理な仇討ちなど決して望んではおりません。何よりも、悲観して死を望むであろう貴殿そのものを、何とか思い留まらせたいはず。ならば私は大殿の為にも自らの為にも、決して御身を危険などに晒せはしない」 「黙れッ!!」 耐えかねて、政宗は左手を小十郎の掌から抜け出すと自分の背中に広がっている大布を掴んで彼の顔に投げ払って言葉から逃げた。 一瞬小十郎の視界は大布の紫色で覆われ、両目を閉じる。しかし右手首は相変わらず押さえられたままだし、たかが布にそれほど攻撃的な威力があるわけでもない。小十郎が布を右腕で払う頃には、縮こまっている政宗が見えた。 もう正論を理解しているからこそ、小十郎を直視できない。今まで仰向けだった身体を右に向け左手で耳を覆い、背を丸めていた。その身体の上に払われた大布がひらりと落ちる。 茶色い髪は政宗の目元を覆ってしまいその表情は伺えないが、おそらくは泣きそうな顔をしているのだろう。または既に泣いているのかもしれない。 「殿」 小十郎が声を一変させ、気遣うように低く囁く。 「…分かっている」 上からふわりと落ちてくる言葉に促されるようにして、政宗は大布を顔元へ引き寄せ震える声を何とか口にした。 「お前の言いたいことは分かっているんだ…。俺の後追いを父上が望まないことも分かっている。だが、しかし…!頭では分かっていても胸の内が納得しないんだ!勝てないと分かっている、父上がお望みでないことも分かっている!だがどうしても畠山が許せない!あの血が今だこの世にあるかと思うだけで、全身の血が沸き立ち胸が締め付けられ、居ても立ってもいられないんだ!!」 痛々しい叫びが部屋に響く。 「佐竹蘆名を討つのは今ではないことくらい分かっていた。畠山家だけを潰せればいいものを、あのような連合軍に来られては我が軍は一溜まりもない!でもじゃあ…。じゃあどうしろと言うんだ!大軍が目の前にあろうとも、この哀しみと怒りは抑えることができないんだ!もうどうしていいか分からない…!」 「…」 静寂が部屋を包んでしまえば、このような局面が同じ城内で繰り広げられているとは思わず城の南の酒席で月を湛えている家臣たちのざわめきが遠くくもって聞こえてくるだけだった。 しばしの間政宗が肩を振るわせて顔を布で覆っているだけで何の会話もなかったが、やがて小十郎がそっと大布の上に広がっている政宗の髪先を撫でるように右手で弄った。 「申し訳ございません。今の貴方は思考が僅かに混乱し、私のような者がその意を把握するのは難しかった。…大殿の意思は御理解しているのですね?」 確認するような言葉に、政宗は何も返さず顔を更に反らした。 「もし畠山家を絶やしたとしても、死を願わず、哀しみに暮れず、畠山を討ち取って生き延びる意思はおありですか?大殿の願いはその先にあるはずです」 更に背を丸め、すぅと政宗が僅かに顔を上げた。 「…正直、自信は…ない」 前髪の奥から隻眼が畳の目を真っ直ぐ見つめている。 「父上は俺の全てだった。それを失って仇討を討ち、そうして果たして生きていけるかどうか分からない」 「…」 「だが」 小十郎を直視する勇気にはこと欠けるものの、深い哀しみだけでその目には涙はなかった。変わりに、酷く切羽詰まった決意のような光が弱々しく、しかしはっきりと宿っている。 数秒間黙り込んだ後、意を決するように政宗は今度こそはっきりと顔を上げていつまでも自分を覆っている男を睨むように見上げた。もう先ほどまでの感情的な言動はない。 「できることならそうしたい。俺は由緒ある伊達家の嫡男だ、父上の背負ってきたものを引き継ぐ義務がある。それができるような器でありたいともう長年思ってきた!」 「それをこのまま理想に留まらせるおつもりですか。こうしてここで嘆き、最期の晩を女のように床に伏せて涙したまま何もせず」 「…」 小十郎のその言葉に突如見えない風が吹き、政宗の頭の中から靄のようなものが一掃された。 鈍っていた思考も哀しみに暮れていた感情も、何故か一瞬にして唐突に抜け落ちる。彼と口論している間に、悲鳴や女々しい嘆きや怒りを暴露しながら自分の考えがまとまってきた。 急に自分のすべきことが分かったような気がした。それはある種の自棄だったが、 今の政宗には必要な心の壁を突破するための自棄だった。 「…。何もせず…」 政宗が一人、何処か呆けた声で繰り返す。 ゆっくりとその言葉が脳内に浸透し、不意に彼の目が鋭い光を取り戻す。自分の身体の上にかかっていた大布を払うと、小十郎の方を左手で押しのけた。 「何もせず…?…冗談じゃない」 「殿…」 「何で俺がこんな場所で朝方の死を想いながら過ごさなきゃならないんだ…。そうだ、要は畠山を潰せば良かっただけのはずだ。それを連合軍が横槍してきたから目がそちらにいっただけだ」 「…」 徐々に浮き上がってくる政宗の言葉を聞き、小十郎はついとさり気なく政宗の腰元を数カ所指先で押した。 「今からでも遅くはない!単身で夜襲をかける!」 捉えていた小十郎の手から逃れ、思い出したように政宗は立ち上がった。 そもそも連合軍は政宗に潰されようとしていた畠山への単なる援軍。その援軍の数があまりに多かったために無視できず、本来の目的よりもそちら側を主流として陣を構えていたが、考えてみれば今この時に畠山を潰してしまえば仇は取れる。 畠山義継が交わした連合軍との契約や軍に参加している将達の絆がどれほど厚いものなのかは知らないが、もしも口先だけの同盟ならば畠山の二本松城が既に落とされたと聞けば連中は助ける相手を失って畠山の仇討ちなど取る気すらなくあっさりと身を引いて帰るかもしれない。 それくらい脆くいい加減な絆だとしたら、逆に畠山を餌にして戦で弱った伊達軍を潰しにかかろうと勢いずくだけかもしれない。どちらにせよ、やはり明日が死に日だと政宗は思った。 だがただ悲観してそれを待つよりも、今できることもあったのだ。あまり卑劣なことは好きではない彼だが、今はそんなことも言っていられない。畠山への夜襲。そして良ければそれによる連合軍の撤退の可能性が出てくる。 如何にその可能性が低かろうと、政宗はその僅かな希望を選択した。 そして、それは同時に生を選ぶ選択でもあった。父親の後追いでもなければ自暴自棄になり死を望んでいるわけでもない。今選べる最善の選択にして、本当に微々たる可能性をその手で選んだ。 「刀を!」 政宗は力を取り戻した声を張り、窓の向こうの漆黒に浮かぶ月を睨みながら右手を横に振って背後の小十郎に言った。 「月雀を呼べ、鎧を着けろ!全軍に命を出せ!!今の最善策はこれしかない。全力をかけてこの夜襲に臨むぞ!今すぐにでも庭で飲んでる奴らを叩き起こ…」 政宗の声が途中で止まった。 畳に落ちた大布を拾ってその端を両手で持ち、それで包むように小十郎が背後から抱いた。感情を押し殺してきた彼の腕は宙を舞う紅葉の葉のように軽く力は入っていなかったが、その分全てを肯定してくれる優しさで溢れている。 「小十…」 「…」 突然のことで政宗は一瞬驚愕したが、彼が何か反応を示す前に小十郎は離れた。 再び腕に戻ってきた大布を肩に羽織りながら振り返ると、小十郎は先ほど彼の身体を抱いた腕と同じ温かみを感じさせる微笑みで一度だけ、僅かに微笑んだ。一歩後ろに下がって距離を置くと、改めて頭を下げて一礼する。 「殿。…こちらへ」 彼は襖を開けて隣の部屋も横切り、廊下に出て行った。 政宗も戸惑いながら後を追って廊下に出ると、冷たい木の板の上に二人の人物が座して彼らが部屋から出てくるのを待っていた。一人は月宮。もう一人は今だ政宗の姿を借りている鬼庭だった。 「お前ら…」 左右対になっているかのように座っている二人の姿気付くと、政宗は足を止めた。 前へ出て襖を開けた小十郎はそれを終えると、彼と二人の間を一歩後ろに下がって仲介役のように立った。 「月宮殿」 促すように小十郎が名を呼ぶと、月宮は頭を垂れて一歩前へ出た。 政宗の足元に跪くと懐から一本の脇差を取り出し、丁重に両手で彼に差し出した。差し出された脇差が一体何なのか疑問に思いながらも手に持つと。 「!…これは、佐竹の家紋!」 脇差には連合軍の主格、佐竹家の家紋が彫られていた。 家紋はその物の持ち主を示す。この脇差は間違いなく佐竹家の誰かのものだ。しかし誰かと言っても、これほど上質に飾られた物が持てるのはほんの僅かのはず。 「月宮、これを何処で…」 「前佐竹家当主にして今回の連合軍の総帥、佐竹義政のものにございます」 「義政だと?確か相当高齢で、戦になど出ていないはずだ。今連合軍を束ねているのは息子の佐竹義重のはずだぞ」 「今まで長い間睨み合っていた諸国を束ねるのは義重殿では些か力量も人徳もなく、今回の巨大な連合軍を影でまとめていたのは義政殿でございました」 鬼様と呼ばれている義重は確かに勇士だが、外交面はあまり得意ではなかった。 彼の息子である義広が当主である蘆名家は彼の一声で協力を得られるとしても、今回の連合軍を創りあげるのに当たって実際にその他の諸国に声をかけたのは義重の父親であり既に引退をした義政の方だった。 確かに、あの荒々しい義重が今回のような連合軍を難なく築けたことに政宗は疑問を持っていたが、父親の義政がまとめていたとなれば素直に頷ける。 だが、その義政の脇差が今彼の手元にあるのだ。それが何を意味しているか。 「あの義政の脇差がここに…。…まさか」 顔を上げて、彼は脇に立つ小十郎へ顔を向けた。 「彼の者は既にこの世にはなく」 「…!」 さらりと発せられた言葉に驚き、開いた口が塞がらなかった。 まじまじと手にした脇差を見下ろす。月宮が後を続けた。 「義政殿は戦場にはおらず、城で戦況を眺めておりました。そこを我が部隊の一人が家臣に化け、その胸に刀を。罪は眠らせておきました本来の家臣へと被せ、死体も無駄に隠さずそのままに。忍の働きとしては些か乱暴ではございますが、証拠としての脇差でございます。どうかお納め下さい」 「…」 「殿、実質上の統率者をなくした連合軍など烏合の衆」 小十郎が言った。 彼は今晩の討ちにこの情報を忍を使って連合軍に流し、それを撤退させるつもりらしい。だがやっと我に返った政宗はそう上手くいくとはとても思えなかった。これ一つで撤退を促すなど、あまりにこちらの理想が入りすぎている。 「だが、あれほどの大軍だぞ。今から情報を流したとしても数に任せて押し込んでくるのが普通だ」 「ご安心下さい。第二策は既にご用意を」 今まで黙っていた鬼庭が、謹んで発言した。 跪く自分の姿を見るのはあまり愉快なものではないが、政宗のその感情を知ってか知らずか整っている彼の顔を微笑ませて。 「佐竹家と不仲で知られる江戸家、里見家の二家をご存知でしょうか。あの者たちに我が隊から伝令を出し、今現在佐竹が国を開けてこちらに来ているということを伝えましてございます」 江戸家、里見家の二つは前々から佐竹家の持つ土地を狙っていた。 しかし鬼武者、義重を討つのはなかなか難しく手招いていたのだが、今彼は政宗を潰そうと伊達の領地へ足を運んでいる。そのため自分の持つ領地はがら空きとなってしまっているのだ。 このチャンスを見逃すような二家ではなかったが、十分に義重が国元を離れるまで足を止めて様子を伺っていた。だが、そろそろ攻め時だとうことを鬼庭の部下の一人が彼らに伝えに走っていたのだ。 「自分の国元が攻め入られているとなれば、義重殿とて戻らぬ訳にはいきますまい。そして中心である佐竹軍が去ったとなれば、連合軍は散るしかないはず。佐竹、蘆名を抜かせばその他の諸将など先頭を切る勇気もございません」 「お前ら…」 政宗は言葉すらまともに吐けぬまま、そう呟くのが精一杯だった。 まさかここまで策が張り巡らされていようとは、欠片も思ってはいなかった。夜襲しかないと思っていたが、この二つの策があれば十分に連合軍の撤退は導ける。そしてその先に、輝宗の仇である畠山を討つこともできるはずだ。 彼は両目を伏せ、今与えられた脇差を握ったまま言葉にならない感謝の念を、ただじっと胸に集めた。 「…。…月宮」 「は」 「蹴るぞ」 言うなり、政宗は跪いていた月宮の黒い覆面で覆われた顔を横へ蹴り倒した。 靴を履いている時と比べれば衝撃は少ないが、それでも容赦のない彼の足はたった今戦況を逆転させる品を差し出した部下は頭部の左を強打されバランスを崩したが、両手と爪先で床を押さえて倒れはしなかった。蹴られた頬は布で覆われているため分からないが、赤くなっているだろう。やがては腫れ出すかもしれない。 受け身など月宮にとっては容易なはずなのに、それをしなかった。彼も今回、睡眠薬を持って岩角城へと運んだことがどれ程主人を苦しめ嘆かせたのか分かっていた。分かっていた上でのその身を案じての行動だったが、今はそれを後悔している。 まさか政宗が見張りに着けていた部下を倒してまで馬を走らせ、夜道を危険も顧みず本宮城へ戻ってくるとは思わなかったのだ。自分一人が安全な場所にいることを望まない主人に対して、彼は改めて敬意を深くし主人を想った。 月宮だけではなく、今回の政宗の行動には黒脛巾全員が驚かされ、感服していた。 「お前が先代から引き継いだ伊達家当主を死守するという指命は、分からなくもない。だから今回の一件はこれで終いとする。次からは馬鹿なことをしないでくれ」 「申し訳ございません」 「鬼庭。お前もさっき部屋で言った俺の命が聞こえなかったのか」 「…いえ、ここを出れば必ず」 いつまでも政宗の変装を解く気がないらしい鬼庭はしぶしぶ衣をはぎ取り、政宗の姿では大きすぎる本来の自分の服に変えた。本来の姿に戻るには歪めていた関節を元に戻す必要があるのだが、それはあまり見た目にも耳にもいい光景ではなく、ここを出たら必ず変装を解くことを政宗に約束した。 政宗はその応えを聞いてため息をつき、肩の大布を再び羽織り直す。小十郎が政宗の背後から進み寄り、両手を差し出した。その手には政宗の右目を覆う刀鍔が紫色の布の上に重々しく置かれていた。 彼はそれを受け取ると、いつものように空洞となって久しい右目を覆った。 「策は整ってございます。殿はただ腕を振り一言、散れと命ずるのみ」 「…」 小十郎の言葉を聞きながら眼帯代わりに鍔を着け終えると、ずっと屈んでいる月宮の傍に屈んで、彼の肩に手を添え、目を閉じた。 「二人とも、感謝する…。よく伊達のためにそこまで整えてくれた。必ず策は成すだろう。父上を失っても、俺にはお前達がいた。それを忘れていたことを許してくれ」 「何と勿体無きお言葉」 鬼庭がすぐさま口にしたが、月宮も全く同じ心境だった。 幼い頃から心への痛みを受け続けてきた政宗は、それ故に人があまり表せない心からの感謝や賛辞が表せた。言葉が何の濁りもなく他者へと伝わる。 彼は立ち上がると一度深く呼吸をし、息を吸うと顔つきを変えた。 もう弱音は吐かない。定まった目標が目の前にあり、希望も可能性も見えているのだから。 「さあ散れッ!勝利を伊達に!!」 右腕を横に振って声を張る政宗に、僅かに頭を垂れただけで言葉も音もなく二人の忍は消えた。 彼らの戦は今から始まる。今一橋の向こう側にいる連合軍の中を変装して走り回りながらさり気なく今の二つの情報を、晩を通して広める。それは決して槍を振ったり血を見るような派手な戦ではないが、彼らにしかできない最も洗練された戦法だ。 静寂を取り戻した廊下に残されたのは政宗と小十郎だけになった。 「…視界が開けた」 政宗は呟き、大布を払って捨てた。 連合軍のまとめ役、佐竹義政の死亡。佐竹家領地への江戸、里見家の侵入。この二つの情報が一気に連合軍内部に広まったとなれば、彼らは撤退せざるを得ない。 この二つの策は、確かに鬼庭の抱える忍隊と月宮の黒脛巾がそれぞれ行動した結果だ。だが、これらを促したのが一体誰なのか、哀しみや盲目的な視野から解放された政宗には何となく理解ができていた。 片手を腰に添え、肩越しに背後を振り返る。 目が合った小十郎はその場に片足を立てて跪き、政宗に向かって頭を垂れた。 「…お前は一体何なんだ」 全てはこの男の誘導だ。 もう十年近く足元に平伏すこの男のあまりの知略に、今更のように政宗は寒気すら覚えた。 「私はただの人という種の道具でございます。私という道具を使えるのは御身のしなやかな両手のみ」 抽象的な政宗の問いにそう返した後、小十郎は顔を上げると主の手を一つ取って主を見上げた。 いつもは表情など欠片もない彼の目に、本来の小十郎という人物の感情が初めて見えたような気がした。真っ直ぐ自分を見つめる他者の目というのは、こういうものをいうのだろう。しかし、政宗が父親に向けていた視線とは似ているが、違う。政宗が縋るだけだったのに対し、小十郎の視線は偏ってはいなかった。 政宗の手の甲に頬を一度添えて離す。 「この城も土地も、節に降る雪も空に輝く月さえも。全ては殿の御為に」 「…」 「御身足を」 呟いてから、何処までも献身的な彼はやがてまだ処置途中だった足の傷を見るため、政宗にその場に座るよう促すと、まるで高価な宝玉でも扱うような手つきでその足に包帯を巻いた。 処置が終わると足の動きを確認し、両足を揃って胸元に引き寄せると自室でそうすることが多いように政宗は膝を抱えた。桶や包帯を片付ける小十郎を見ようともせず、足元の畳の目を食い入るように見つめている。 「…小十郎」 「は」 手元から視線を外し、呼ばれた彼はすぐさま両手を前に添えて頭を下げた。 政宗は相変わらず畳を見つめ、緊張が解れたのか、何処か眠そうなぼんやりとした声で呟く。 「今回の一件、お前の根回しは褒めるしかない。悔しいが、俺への手前勝手な気遣いやつい先ほどの言葉は咎めなしとしてやる」 本来、許す気など全くなかった。 彼自身を気遣っての行動とはいえ、小十郎のしたことは政宗にとって今までの信頼やお互いの意思疎通を遮断する、考えられないような行動だった。だが、それとは別に彼が用意した先の二策はそれを許して更に褒め称えてもいいほどのものだ。 「ありがとうございます」 道具を脇に置いて部屋の隅に控える彼は深く頭を下げて感謝の意を表した。それを一瞥し、政宗はまた俯いた。 上座に彼が座り、部屋の隅には小十郎が座している。いつもは意識すらしていない彼らの日常を示すような配置を、今日政宗は初めて知った。思えば自分の視界には必ずこの男がいて、もう長いことそれが当たり前となっていた。 小十郎は全てにおいて何でもそつなくこなす男だ。着物の畳みから城落としの策、そしてあろうことか敗北確実の戦までをひっくり返せるような男だ。今までのことを思えば、政宗は自分でも少々頼りすぎているのかと思っていた程だった。 だが考えれば、傍にいて絶えず政宗を気にかけていたこの家臣の名を指して命令したことなど、確かに数えるほどかもしれない。 しかし、実際に口には出さずとも。 「…小十郎」 「は」 不意に政宗が名を呼び、小十郎は彼の声が聞きやすいよう彼の斜め前に座って両手を前に添えた。 「今名を呼んだのはそれだけで命令だ」 酒でも持ってこようかと口を開きかけた小十郎より先に、政宗は言った。 「お前の中では既に当たり前かもしれないが、俺は常にお前に傍にあり、様々なことを命じているつもりだ。確かに具体的に何をしろとは言わないかもしれない。だが、…傍に置いていることこそが、命だと思え。名を呼ぶこと自体が、既に何かを命じていと思え。それを自覚していない側近などいらん」 相変わらず目線は畳の藺草目にあるが、消え入りそうな声は確かに聞こえた。 相手が自分を見ているか認めているかという些細な相手の視線や発する言葉がどれ程その者を想っている人を苦しめるのか、政宗はよく知っているつもりだった。自分を失えば崩れると断言した小十郎の想いは、如何に鈍感な者でも気付いてしまう。 「…。殿…」 沈黙の後、小十郎が何かを決意するように指先を畳から離した。 だが。 「俺に触るな」 彼が腕を上げる前に、政宗は肩にかけていた大布で身を隠すように身体を引いた。 それを受けて僅かに双眸を揺らし、小十郎は俯く。完全な拒絶を示す動作だった。 「お前が俺を想うように、俺は父上を永久に想う。恐らくお前なら…。いや、お前だからこそ、この気持ちは分かるだろう」 誰かに陶酔するということは、体験したものでなければ分からないある種の世界そのものだった。 普通の人間の生活の基準が空高く動く太陽や月であるのと同じように、ある特定の人物が全ての基準となる。相手が望むならば朝も夕も関係ない。喜んで何でも差し出し、相手が傍にいればそれだけで幸福だ。 政宗が輝宗にそうであったように、小十郎には政宗が全てだった。だが、それ故に君主の心の痛みと苦しみは理解したくなくても自然と分かってしまう。政宗が死に、それを見るに堪えかねた誰かが自分へ近づいてきても、小十郎は決してその人物の想いなど受け取れるはずがない。主人の自殺志願を止めておいて言えることではないが、一刻も早く後を追うことばかり考えるだろう。 それが分かっているからこそ、彼は深く頭を下げて自分を詫びた。 「私としたことが身分も弁えませんで。…申し訳ございません」 「…すまん」 政宗もまた、今目の前で頭を下げる者の苦しみが痛いほど分かった。 分かっていて、跪く小十郎の方へ歪んだ顔を向けると言葉を投げる。油断すると、あまりの苦しさに涙すら溺れそうになった。 「お前は何者にも勝る…、家臣だ」 「…」 「お前のような者が傍にいることを、誇りに思う」 「…有り難きお言葉」 頭を下げていた小十郎は静かに両目を閉じ、更に深く頭を垂れた。 |
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