初過 >>   月下の涙 隠話

 織田信長の死は全ての国を揺るがした。
 驚異でしかなかったと思われた大きな日本の柱は、失って初めて彼の存在自体が占めていた役割の大きさと安定というものを全ての大名武将達に知らしめた。さながら大地震のような信長の死は国中のあちこちで歪みを生んだ。
 北の端、伊達家にもその影響はあった。
「…さて。どうしたものか」
 当主の輝宗は一人自室で窓の外から城下町を眺め、ため息をついていた。
今晩は月がない。昼は賑わっている城下は静かで、ちらほらと螢のような小さな光が僅かの灯っている。
 信長を討ち取ったのは明智光秀。だが、あの男が天下人に相応しいかというと彼は頷けない。徳川家康か豊臣秀吉か柴田勝家か。次に誰に付くかが運命の分かれ道だった。
 通常の大名が五つ先を考えて判断するならば、輝宗は十先を考えてしまう。この手の思考に使う彼の精神的疲労は大きかった。
『…失礼致します』
 考え込む輝宗の背後にある襖の奥から、落ち着いた声がした。
 あまり大きいとは言えない声量に相手が誰なのか理解して、彼は正面を向いたまま再びため息をついてから口を開いた。
「あぁ、政宗か。入っておいで」
「…」
 襖の開く音がして、人の入る気配がした。
 考え込んでいても仕方ない。息子と酒を飲んで気を紛らわせるのもいいだろうと振り返り、彼はぎょっとした。いつもは頭を下げて入ってくるはずの政宗がその日はそこに立っていた。
 意図しているのかいないのか、白い寝間着の襟は大きめに開かれ、形のいい鎖骨が覗けている。腕には紫色の大きな布をかけ、手には菊を一輪持っている。十五の数を数えた身を半ば強引に艶っぽく覆って仕上げたようなその姿は若さを魅力に変換させ、親の輝宗から見てもまるで遊女の様な姿をしていた。
 だがそのくせ媚びることなく酷く無表情で、昼に戦地や学問の最中に見せる表情とは別人のようだった。まるで腐った右目がまだある頃のように、見るものを哀れに思わせるような悲哀が周囲を泳いで彼を包んでいた。
「どうしたんだ、そんな格好で」
 輝宗は眉を寄せてすぐに彼に何か着せようと自分の羽織を脱いだ。
 だが、政宗はどこか呆けた顔でただじっと輝宗を見つめ、抑揚のない口を開いた。
「昨晩、母上に毒を頂きました」
 その言葉に、ぴたりと輝宗の手が止まる。
「…毒だと?」
「ええ。おそらくは樒の葉を使ったものと思われますが、無知なる私にはよく分かりません。小十郎が側におりましたので薬はすぐに得られました」
 他人事のように淡々と言う。
 だが、これでもう三度目だった。最初は母親が自分に毒を盛ったことを知ると酷く狼狽して取り乱し、室内にあった飾り物を全て投げ割っては声の限り嘆いていたが、そろそろ彼の中で日常化しつつある。別にもう動揺すべき事ではない。
「父上のお耳を患わせるとは思いましたが、以前こういったことがあった際は報告をと申されましたので」
 ただあるだけのことを報告する彼の心は、極めて危険だった。
 最近は笑うようにもなってきたし、怒るようにもなってきた。振る舞いも凛としている。ただそこに置かれているだけの人形のような幼少時よりは随分感情豊かになってきただが、今の政宗の表情からはそれらは微塵もない。それに輝宗は危機感を覚えた。
「あの馬鹿が…」
 輝宗は舌打ちして顔を顰め、自分の妻である義姫を罵った。
 良くも悪くも利発な妻は竺丸という次男ができると同時に、あろうことか長男である政宗を消しに掛かっていた。彼女の政宗への嫌悪は病にかかって右目が潰れた日から続いていたが、唯一の跡継ぎだったため距離をおくだけだった。
 だが、次男ができれば彼女の愛情が両目を持つそちらへ注がれたし、竺丸を愛して政宗を嫌悪する義姫からしてみれば、後は彼が死んで竺丸が跡継ぎになればいいと考えていた。今回を入れて三度毒を盛られたが、一番当初は竺丸が生まれてすぐのことだった。
 輝宗は哀しげに表情を曇らせると、脱いだ羽織を腕にかけて政宗の方へ軽く片腕を上げて歩む。
「大事には至らなかったのだな」
「はい。何事もなく」
「なら良いのだ…。許してくれ政宗。あいつはその心の一部を物の怪に食われてしまったのだ。息子のお前を殺そうなどと、奥底では間違っても思ってはおらんよ」
「別に私は構いません」
 きっぱりと政宗は言い切った。
 俯きがちに手にしている菊の茎をくるくると指先で回し、その様子を眺めながらぼんやり呟く。花弁が回転するたびにふわふわと不安定に揺れた。
「私の母上は私が右目を失ったと同時にこの世から去ったのでしょう。…あの女は別の女です」
「政宗」
「あの女が私の命をいくら狙おうとも構いません。所詮は独り善がり。好き勝手に動けばいい。私が恐れるのは父上を誑かされること。私がお側にいない間にいつあの女が父上を唆すことか。…。もし父上を失えば、私は…」
 最後の言葉は蚊が鳴くほどに小さな声だった。
 耳を澄ませないと聞こえないようなその言葉を受け、輝宗は小さな肩に自分用の大きな羽織をかけ、安心させるようにその身を抱いて背中を二度ほど叩いた。松の枝のような茶色い髪を頭の輪郭に沿ってゆっくり撫でる。
「儂は大丈夫だよ。いつまでもお前の味方だ。だがな、実母をあの女呼ばわりは流石に見過ごせない。いいかい、政宗。難しいかもしれないが、少しでもいい。義と歩み寄っ…」
「あの女と会わないで下さい」
 輝宗の声を遮り、俯いたまま政宗は小さいが、しかし鋭い声で言った。
 彼が父親の言葉を遮ったことなど、今まで一度としてなかった。それが以下に異常なことなのか一番知っている輝宗が不振に思って腕の中の政宗を見下ろす。彼は爪を輝宗の着物の合わせ目に引っかけるようにして手を添えた。その手を少し上に上げ、白い指先が輝宗の素肌を意味深に滑る。
その行動に輝宗が眉を寄せるより早く、先ほどとは一変した微かだが確かに人の耳に残るような囁きが聞こえた。
「伽でしたら…私もできます」
「…!」
 瞬間、政宗の両肩を掴んだ輝宗が勢いよく自分から腕を伸ばして彼の身体を離した。
「…。…誰に吹き込まれた」
 両肩を掴んだまま、彼は真面目な顔で息子を咎めるように見つめた。
 だが、政宗はやはり感情のない顔で質問に応えず僅かに目を伏せ、そっと輝宗の左腕に自分の左手を、菊を持ったまま添える。やはり肌の上を滑らせるようにするりと皮膚の上に白い指先が絡んだ。
「欲を吐くなら女じゃなくてもいいはずです。役目は果たしてみせます」
「そういう問題じゃないことくらい分かっているだ…!」
 険しい表情で輝宗が声を張ったと同時に、政宗は父親の両手を払った。
 そのまま畳を蹴り、飛び込むようにして輝宗に身を寄せると顔を胸に埋めた。細い両手の指が背中に回り、まるで何かに怯えるように彼の寝間着に皺を寄せる。ぎゅっと強く身体を抱きしめられるが、あくまで握るのは寝間着であって、背に爪を立てるようなことはしなかったし、力一杯抱きしめるという風でもなかった。
 そっとそっと、行きすぎないよう、ただ縋るように手を背に置く。
「政宗…!」
 咎めるように名を呼ばれても、政宗は何も言葉を返さなかった。
 代わりに、僅かに舌先で輝宗の鎖骨を舐める。ぴくりと輝宗の額に皺が寄った。少年の表情と仕草に一瞬輝宗の脳がぐらりと揺れる。だが揺れると同時に、流されまいとする意思も働いた。
 政宗の片腕を払い説得をしようと試みたが、解かれた手はすぐに輝宗の首筋に伸びた。途端に何の香を使っているのかはしらないが、ふわりと空気が揺れて薄くも強い香りが鼻腔を突く。まるで逃れられない香りにでも捕まったかのように、輝宗は一時抵抗を止めてしまった。
 腕の止まった輝宗に、甘えるように政宗が背を伸ばして口付ける。触れるだけの幼稚な接吻の後、下って二度ほど首筋にも唇を寄せた。つたない口付けは返って完成された性交に慣れた者には強い魅力を与える。
 人も物も、完成されていないが故に完成されているものよりも美しい時がある。政宗が今持っているのはまさしくその魅力だった。
「…っ」
 迂闊にも狼狽して足元を崩し、輝宗はその場に倒れ込んだ。
 まさか倒れた音でここに人を集めるわけにもいかず、反射的に右手を先に畳に置いて尻餅の衝撃を和らげた。少し畳の藺草に手首を擦られ、赤くなる。畳に腰を着けて座り込むのを政宗は大人びた表情で見下ろし、手首に気を取られている輝宗の腹を跨いでそこに膝立ちになった。
 ぎょっとして輝宗が顔を上げると、想像以上に間近の顔があった。決して見目のいいとは言えない右目が現れているならともかく、眼帯の着けている今なら彼の顔には欠点らしい欠点は見あたらない。
 後ろに手を付いて立ち上がろうとする輝宗の行動を塞ぐように、政宗はまた彼に口付けた。今度は惑わすように彼の唇の裂け目を舌先でなぞる。濃艶な誘いに、殆ど反射的にといっていいくらい突飛に頭の中が白く塗り潰され、輝宗はそれに応えてしまった。
 重なっていた唇が不意に開いて自分の舌先に他者が触れたので一瞬政宗が震えたが、すぐにされるがまま身を任せる。相手の舌先に乗った唾液を吸い集めるような行為は水が小さく跳ねる音と似た響きを周囲に広げ、数回も繰り返せば腰元にむず痒い痺れが生じた。
「ん…」
「…!」
 霞んだ声を出して下部を擦り寄せるように政宗が一度腰を僅かに揺らしたので、輝宗ははっと我に返ってすぐさま顔を引く。
自分で自分が信じられないという表情で驚愕し、口元を袖で拭った。気遣うように政宗を見ると、先ほどとは比べものにならない程の妖艶さを湛えてそこに座し、溶けたような顔でじっと輝宗を見つめていた。
 心音が急に早まり、全身が熱くなる。欲情しているのを自分自身で知り、輝宗はなるべく冷静になろうと二度ほど深く呼吸をしてから政宗の肩を右手で力無く押した。
「政宗、止めよう。…分かるだろう。これはこの上ない異端だ」
 苦しげな表情で何とか言葉にする。
 彼自身必死だった。自分の身体なのだから、変化は誰よりも明白に分かる。例え息子であろうと、これ以上何かされたら歯止めが利かなくなるだろう。彼は政宗が凛々しく汚れないとは思っていたが、今まで一度として女人や小性と同じよう抱く対象という目で見たことがなかった。
 当たり前だ。息子なのだから。だが視点をそれに合わせればはっきり分かる。幼いはずの彼の仕草は全てが艶やかで美しく、人を惑わす。本当に、日頃すぐ側に彼のような者がいて今までその魅力に毒されなかったのが不思議なくらいだった。
「元より、承知の上」
 輝宗の制止に、政宗は短く応える。
 細い両腕が輝宗の首に伸び、また弱々しく抱きしめる。ずっと手にしたままの菊の花が顔の横に位置した。遅れて躯も腰を上げ、背を反るようにして輝宗の上半身にぴたりと着ける。
幼い躯は自分と同性とは思えない程細く弱々しく、柔らかい。もう若さを失いつつある肉体を誘うには十分だった。
「一夜だけ。後生です父上…どうぞ梵をお好きに」
 自分を追い詰めるように目をきつく閉じた政宗が、輝宗の耳元で囁く。
 理性を外すには十分な言葉だった。


「…。…立てない」
 口元と鼻を布で覆った小十郎が襖を開けると、政宗は彼を見上げて恥じることなく平然と言った。
 まだ夜は明けていない。寅一ツはちょうど丑三ツ時を越え、皆が寝静まり、まだ起きる者もいない。その時間帯に起きているのは政宗と迎えに来た小十郎だけだろう。察しのいい養育係が何も言わないのだから、きっと忍も今は一人としていない。
敷かれた布団の上にへたり込むようにして、政宗は座っていた。寝間着は既に身に着けておらず、情事の後に輝宗にかけられた羽織だけが肩から滑り、腰元に落ちている。お世辞でも何でもなく、珠のような素肌は灯りのない闇の中白く映えて見えたし、その分内腿や腹など粘着のある水の色合いもまた映えた。濡れた場所が、神秘的に輝く肌の光とは対称的に妖しく暗闇に映る。
「…」
横では輝宗が寝息を立てている。
小十郎は耳で彼の寝息が安定しているのを確認し、部屋の隅にある襖の前へ置いてあった掌サイズの小箱を手に取った。小箱は蓋の部分に数カ所穴が空けられ、そこから今も薄い煙が流れ続けている。
中は粉末が入っており、火で焚いていた。眠り薬。薬学の基礎中の基礎であるこの薬は、小十郎にとって朝飯前だった。どれくらいの濃度でどれ程のタイミングで、最も効果的な薬を理想的な時間に焚き上げることができる。
 それを一回り大きい全く同じ柄の小箱の中へしまう。こちらは蓋に穴が空いていないため、煙はそこで止んだ。だが呼吸器官を覆っている小十郎や予め薬を飲んでいる政宗と違って、煙を吸った輝宗はしばらく起きないだろう。
 小箱は情事が終わってから襖の隅を僅かに開き、そっと小十郎が室内に差し入れた。
 彼は小箱を懐に仕舞い終えると、布団の側へ寄って政宗の側に座る。深く一礼してから政宗の下部に持ってきた布をかけ、側に落ちていた菊の花を拾った。懐から和紙を取りだし、その上に菊の花を下にして指先で数回茎を叩く。
 パラパラと黄色い花弁の奥から灰色の粉末が落ちてきて、和紙の上に小さな山を作った。菊の香りに紛れていたため気付かなかったが、それ自体が直に集まればむっとする濃厚な香りとなる。
 その薫りが鼻腔を擽り、政宗は少し前の父親との情事を思い出して自然と躯の筋肉が引き攣った。躯が再び肉欲を持つ前に、下部を隠している布の端で口元を覆って身を引く。
「もうそれを離してくれ。躯がまた熱くなる」
「畏まりました」
 小十郎はまた別の小箱を懐から取り出すと、和紙ごと丁寧に中に封じた。
 菊の花と一緒に懐にしまう。政宗はその後もしばらく口元を押さえたままだったが、小十郎が口覆いを解くと、安心して自分も布を離した。
「まだ日の出までにお時間はございますが」
「俺だって側にいたいが…。お目覚めになった時に俺が横にいては父上の御心は安まらぬだろう。早々に部屋に戻った方がいいと思うのだ。…それに」
 政宗は自分の身を抱くように右手を左腕に添えて俯いた。
「身体中が汗やら何やらでべた付く。さぞ醜いだろう。…このような姿を日の下で父上に見られたくない。それに湯に浸かりたいし、眠い」
「下に用意してございます」
 抜かりのない小十郎に、政宗は顔を上げて彼を見た。
 小十郎は素知らぬふりで政宗の細い右腕を自分の首にかけ、背に手を回す。彼が自分を抱え上げようとしていることに気付き、膝裏に腕を入れやすいよう足を前へ伸ばそうとしたが、腰に痛みが走った。
「痛…っ」
 それは確かに痛みのはずだが、他者を自ら抱くことはあっても受け入れる経験が二度目でしかない政宗の躯は、昨晩得た快感をその痛みを通して思い出そうとする。
 後ろ腰を撫でられた時を思い出し、途端に背中の皮膚が粟立った。我知らず鼻にかかった声が漏れる。唇を噛みしめたところで、鼻から抜け出るようなその声を塞ぐにはあまり意味はなかった。
「もう少し御休みになられた方が」
小十郎が腕を一度止め、気遣うように政宗を見る。彼は片手を上げて制した。
「気にしないでくれ…。…っ…早く運べ」
 必死に記憶の快感に耐えようと歪めるその顔は毒そのものだった。
 少し戸惑ったが、言われた通り小十郎はゆっくり彼の両足を前に伸ばし、膝を立たせる。冷たい彼の手が脚に触れる度に嬌声を発しそうになり、政宗は背を丸めて片手で自らの口を覆った。横で寝る輝宗を気にするように一瞥し、唇を噛んで顔を朱く染める。
 行為の最中はさして気にしていないどころか誘おうと意図して発していたが、間をおくと信じられない羞恥にかられた。小さな残り声すら輝宗に聞かれたくない。
「湯に入れば落ち着かれます。それまではご辛抱下さい」
 小さく囁いて、小十郎が政宗を抱えて立ち上がる。
 悪寒にも似た強烈な痺れが、腰元から四肢の先に鳥肌をつくって広がっていった。
「ぅ、ぁっ…!」
 脚の指先が引き攣ったように痙攣する。
 薬の効果を与えられて若い柔肌の魅力に毒され、輝宗は政宗が思っていた以上に長い間抱き続けた。本心ではなかったとしても、一度でもその手を拒否するような単語を吐いて身を捩ってしまえば捨てられると思っていた政宗だが、途中から責め苦に翻弄されて何を言っていたのすら覚えていなかった。最後の方には逆に許しを乞う発言すらしたかもしれない。
 強烈すぎる快感は、快感であると同時にその時は麻酔でもある。自分が何処にいて何をしているのか分からないほど、一時意識が飛ばされた。胸や菊門を弄られることに抵抗がないと言えば嘘になるが、それよりも愛しい父親が自分に触れてくれているという悦びの方が圧倒的に強かった。
 繋がりは何よりも確かな彼の存在の肯定を意味する。髪を撫でられるよりもずっと、自分を確かに愛してくれているということが明確に理解できた。
 長い間持続して快感を与えられ続けた躯は抱え上げるというたったそれだけの動作だけで、政宗から四肢の支配権を奪った。無意識に小十郎の首に手を回し、快感から耐えようとする。端正な顔を歪め、政宗はぎゅっと小十郎の後ろ首の着物を握った。
「っぁ…ぁ、…あ…っ」
苦しそうに左目を瞑り、微かに開いた口から声が漏れる。
全ては小十郎の冷たい手だった。せめて常人並みに体温があればいいだろうに、冷えている指先は触れるだけで政宗を啼かせた。必死に腕に力を込め、小十郎の肩に顔を埋めて声を塞ぐ。
「…」
 小十郎は少し目を伏せ、政宗を腕で抱えたまま手首から先を自由にすると、その手を袖の中に入れた。
袖を通して再び政宗の背と膝下を抱え、安定させる。彼の冷たい手は失せた。
「少しは落ち着かれますか」
乱れた息を続ける政宗へ、小十郎が尋ねた。
 潤んだ隻眼を彼の着物から少し離し、政宗が小さく頷く。
「では、湯船へ参ります。宜しければ頭を私の肩へ」
「ああ…」
 彼らは部屋を後にした。
 なるべく揺らさないよう小十郎は歩いたが、振動をなくすことなど無理だった。何度か声を漏らしそうになる度、政宗は彼の肩に顔を寄せて縮こまった。次第に耐えられるようになり、呼吸は荒いものの着物から顔を上げて政宗は彼を見た。
 細い手を伸ばし、小十郎の首にぴとりと指先を添える。
「お前は何故こうも冷たいのだ。…まるで死人のようだな」
 悪意のない問いに、小十郎は僅かに微笑んだ。
「天は私に殿の傍にあることを定められました。殿が熱をお持ちであれば、私はそれを冷やすための氷に御座います」
「…そうか」
 政宗は一度指先を離し、しばらくしてからふと身体の力を抜いた。
 全てを小十郎に任せて疲労から来る眠気の中に微睡みながら、彼は目を伏せた。このまま眠ってしまったとしてもきっと全身を拭いて清められ、目が覚めたら昨日と変わらず布団の中にいるだろう。
「直に父上を感じられた。大儀だったな、小十郎。また暇があれば付き合え」
「は…」
 主の身に抱かれ方を教えた側近は瞼を伏せて主の感謝を受けた。
「寝る。湯は任せた。洗ったら着を替えて部屋に運べ」
「畏まりました」
 政宗は改めて小十郎の肩に頭を預け、寝息を立て始めた。
 輝宗の寝息を確認した時と同じく、しばらく間をおくと呼吸が一定に保たれる。
「…」
安らかな顔で眠る彼の髪に、小十郎が目を閉じてそっと自らの額を寄せた。
やがて双眸を開けると姿勢を正し、暗い廊下を灯りもないのに躊躇うことなく湯所へと歩いていった。