初見 >> 月下の涙 隠話 | ||
「ご覧、時宗丸。あの子が梵天丸だよ」 父親の手に引かれて外廊にやって来た時宗の目に、広い伊達家の庭で乳母たちと一緒に散歩をしているらしい三歳ほどの少年が映った。 父親は女達の中央にいる幼いその少年を指さして言った。 「輝宗の息子だ。お前との関係は遠い親戚ということになるが、梵天丸の方がお前より一つお兄さんだな」 「ぼんてん?」 聞き慣れない単語に、時宗は丸い目を瞬いて父親を見上げた。 「天に住まう御梵天のことをいうんだよ。そうだなぁ…、分かりやすく言うと神の子という意味か。いやまったく、世継ぎができたからといって輝宗の奴もまぁ浮かれたんだろうな。だが既に歌を習い始め、弓を射るらしい。特に歌は時が経つにつれて迂闊に競おうとすると大人ですら負けるようだ。ははは、まあお前は競うなどということはあるまいが」 「…神の子」 不思議だな、と時宗は思った。あの少年が神の子だとしたら、天で生まれるはずの子がどうしてこんな所にいるのだろうと本気で疑問を抱いた。従兄である輝宗の息子だが、親子ほどの年の離れた彼などより、目の前に映っている神の子の方がよっぽど親しみやすそうだった。 そもそも神の子だったら、人間である輝宗の息子ではないはずだ。生まれてくる所を間違えたのだろう。あんなに楽しそうに遊んでいるがきっと彼は迷子で、間違って地上へ来てしまい心細いに決まっている。 「じゃあ、あの子はそのうち天に戻ってしまうのですか?」 じっと遠巻きに眺めていた息子が不意に真剣な顔でそんなことを言うものだから、父親は声を上げて笑ってしまった。 「さあ、ご挨拶しよう。お前はあの子が天へ戻ってしまうまで、色々なものから守ってあげなさい」 「?」 意味が分からず首を傾げるが、そのまま手を引かれて時宗は歩き出す。 庭で女達に囲まれ、梵天は今朝方咲いた牡丹を眺めていた。 一歩花に歩むごとに、若松の様な細い茶の髪が穏やかな風に吹かれてふわりと揺れる。上質の着物に身を包み、見るからに利発そうな顔立ちの幼子は指先で重そうな花を突いた。揺れる花に微笑み、彼は少し鼻にかかったような澄んだ声で牡丹を讃える。 「随分と見事だな」 「ええ、本当に」 一番近くにいた喜多が静かに相槌を打つ。 乳母である彼女は優しく慈愛に満ちた笑顔で微笑むと、胸の前に片手を添えた。長い黒髪と乳母という立場にしてはあまり着飾っていない彼女は梵天の傍に歩み寄って屈むと、同じように片手で花を突いた。 「思ったより開花が早くございました。若様に見つけて頂いたので、きっと急いで恩返しをしたかったのでしょうね」 この花に梵天が気付いたのはつい一週間ほど前だ。庭の隅の日陰の辺りに椿に埋もれて別の葉が見え隠れしていた。気になった彼がこの花の種類は何かと尋ねて牡丹だと知ると、このような場所にあるべき花ではないと言い、すぐさま日向へ移すよう言いつけた。 おかげで今、彼らの目の前に美しい花が咲いている。 「そうか」 喜多の言葉に、梵天は嬉しそうに笑顔を向けた。 「あまり急がずとも良いぞ。お前の好きなように咲け」 両膝に手を置いて前屈みになると、牡丹に語りかける。 そんな彼の姿を見て、喜多を始め侍女達は心優しい梵天を微笑みで包んだ。次は池の鯉でも眺めるかと彼が身体を起こした時、離れた外廊の方から声がかかる。 「梵天丸ー!久しいなぁ」 梵天が振り返ると、彼よりも小さな子供の手を取って叔父がそこに立っていた。 小さな小さな、可愛らしい子供だった。梵天は初めて見る時宗と目が合うと、にこりと微笑んだ。彼の笑みに驚いた時宗は空かさず父親の背後に引っ込んでしまうが、やがておずおずと再び顔を出した。 そんな時宗に、梵天はもう一度無言で優しく微笑んだ。 梵天丸と時宗丸。 後の政宗と成実が出逢ったのは、彼らが僅か三歳と二歳の頃だった。 |
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