「――なみ、の、おと……」
「ん? なんか言ったか、今」
ぐっすりと寝込んだっきりの少年の顔を男が覗き込む。が。
「……」
反応はない。
「気のせいか? ま、なんの夢を見ているのか知らんが、顔色はマシになったな」
教室で倒れ、保健室に運び込まれた直後の依知川の姿を思い出す。
そして。常にない動揺を露わにした唯の姿を思い出して苦い顔になる。
「臥龍岡(ながおか)先生? どうかしましたか?」
所用から戻ってきた保険医に呼ばれ、男はひらひらと手を振ってみせる。
「いえ。単に顔色が良くなったかなーと見ていただけで。深い意味はなし」
「そうですか? なんか深刻そうな顔をしていましたよ」
首を傾げ、訝しげに保険医が聞く。
「気のせいでは?」
男は何のこと?と、にこりと笑い素知らぬ顔をする。
「……。病人の邪魔にならないようにお願いしますね」
「邪魔?」
「ええ。人の声って、耳に入りやすいんですよ。聞きたくなくても自然とね。彼は寝不足だったようですから、しっかりと眠らせてあげてください」
保険医は声を落とし、囁くように言った。
「それと。いつまでここにいるつもりですか? 学祭準備の監督はしなくていいんですか?」
「ああ。その件は必要ないと思うが。むしろ、コイツ放って監督なんてしようものなら余計な問題が生じるのが目に見えてる」
ひそひそと会話は続く。
ザザアァンッ ザザア……
波の、音。
それもすぐ側に。
海があるのだろうか。すぐ近くに。
――海?
ここずっと海に行った記憶など無いのに。
「君は、本当に変わりませんね」
男の声、が聞こえた、と思う。
――どこかほっとする、優しい声が。
「どうしていつもそうなのでしょう? ――君らしいけれど」
クスッと可笑しそうに笑う声、も。
――なぜかそれは、愛しさに溢れていて。
優しく頬を撫でられる感触も。
ぬくもりも。
――だ、れ。誰?
誰かが側にいる。
「もう大丈夫ですから、目を開けてみてください。この声が聞こえていたら」
――目、を?
自分が目を閉じていたことに気づく。
そしてそっと、目を開いてみる。
ぼんやりと視界が開け、人の顔が見えた。
「どうかしましたか? どこかまだ、体調が悪いのですか?」
心配そうな表情、声。
そう、わかるのに。なぜ。
目の前の男であろう人の、顔がわからない。
「そう、じゃ、ない」
声が引きつる。
「本当に?」
表情が曇るのがわかるのに。なぜ。なぜ。
どうして、顔がわからない?
「うん、本当、に」
「そうですか……。いつでもいいですから、辛いときには辛いと言ってくださいね」
哀しそうな表情。
「うん……」
そんな顔をさせたくないのに、と。
ツクン、と心が痛む。
俯くと、男が話題を変える。
「それはそうと、君は先ほど溺れかけたのを覚えていますか?」
「え?」
「目の前に海がありますよね? あの沖で、君は溺れかけたのですよ」
それを聞いた瞬間、ぞわりと寒気が起きた。
――あの嫌な夢のことがすぐに脳裏に蘇った。
「……怖い思いを、させてしまったようですね。もう大丈夫――いえ、もともとね、大丈夫なのですよ。夢は怖いものではありません。まして君を傷つけるようなものではありません。そのことを説明しないといけませんね」
男が苦笑している気がする。が。
――ナンの、コト?
こちらはなんのことなのかさっぱりで。
わけがわからなくなって思考が一時停止する。
――なぜ、自分の夢のことを知っているのか。誰にも話していない。話していないのに。
「簡単に言っておきますと、君が溺れかけたことも、今こうしていることも全ては、眠っている間に見ている夢でしかありません。ですから、君の考え方、捉え方次第で海の中であろうとも濡れないことも息をすることも可能です。夢は、融通が利くものですから」
男はそう、すらすらと言うや、
「えっ?」
ぐっと腕を引き、僕を抱き締めた。
そしてすぐに解放した。
「時間ですね。今度は――」
そう、微笑み言葉を綴る途中で。
波の音も、海の景色も、男の姿も、全て。何もかも。
消え失せた。