警告!この先魔法街! >> | ||
寒い。だるい。頭が痛い。腹が減った。気持ち悪い。 伊藤紫の頭の中は、9割9分それで占められていた。 一昨日財布が空になってから満足に食べていないし、まともな場所で眠ってもいない。我ながら、今立って歩いていることが不思議で仕方がないくらいだ。 だからその掲示板に目を留めたのは、ほんの偶然だった。 『警告:この先魔法街 ご自分の安全を守ることの出来ない方は、侵入をご遠慮ください。 現在の危険度は C です。 対処マニュアル 3 が発動されました。 なお、警告を無視して入場された場合に発生した事故・事件に関して 魔法街は一切の責任を負いません』 その掲示板は、雑居ビルに囲まれた狭苦しい駐車場の一番奥に掛かっていた。 掲示板のすぐ横から小さな路地が続いており、そのちょうど真ん中くらいに普通の家についているような鉄製の門が、半分開いた状態で固定されている。 紫は少し考えてから、門の向こうに踏み出した。 それは、好奇心だったのかもしれない。又は、一方的な警告に対する反発だったのかもしれない。もしかすると、限界に達した体力とそれに伴って低下した思考力のせいで、何も考えられなかっただけなのかもしれない。 歩いていく背後で、突然掲示板の文字が変化した。 白い文字が見えない黒板消しでふき取られたかのように端から消えてゆき、新しい文字が描かれる。 『待ちなさい! 警告が見えないんですか!?』 『駄目ですってば!!』 『貴方みたいな人がその先に行ったら1分ともたずに餌・・・』 掲示板に幾ら文字を並べても、背中を向けて通り過ぎた人間に読めるわけがない。 いずれにしてもこの瞬間、彼は人生最大の岐路に立っており、そして選択してしまったのである。 時計を見ると十時を回っている。この辺りではまだ人の通りも多い、気の早い店ならそろそろ閉店の準備を始めるだろうかといった所だ。 ところが、路地から出た先は完全に寝静まっていた。見たところ古い商店が並んでいるようだが、全てシャッターを下ろしている。少し先に進んでみたが、この時間に灯りをつけているのは街灯くらいのようだった。 拍子抜けした紫の背後で、バサバサ、と、かなり大きな音がした。 「え・・・」 振り向いた視線の先に、有得ない物が立っていた。 体つきは人間に似ているが、腕がない。代わりに蝙蝠の羽が生えており、頭部は鼠に似ている。昔絵本でみた悪魔がこんな感じだっただろうか。 これが、ただ立っているだけならば、怪しい人形か、悪趣味なコスプレで済んだかもしれない。しかしそいつは一度大きく羽ばたくなり、丁度大人の胸くらいの高さを滑空するようにして、一直線にこちらへ向かってきた。 くわっと開かれた口の中には、鼠の門歯のかわりに鮫のような牙が並んでいる。そんな知りたくもないものが良く見えてしまい、阿呆のように立ち尽くす。 と、視界が黒い物に遮られた。 「目標確保」 低い声が静かに言ったことで、それは紫よりも大きい男の背中であると判明した。同時に何か、激しい物音。そして、ガラスを引っかくような不快な叫び声がする。それは、あの奇妙な生き物の声だという事は、なんとなく分った。 「悪いな・・・許せ」 落ち着いた声がして。 こきんっ、と。軽い音がしたのが最後だった。 「・・・誰かは知らんが、大丈夫か?」 振り向いた男の顔は、丁度街灯の灯りを背にしていて陰になっている。その代わり、男が片手にぶら下げた・・・首を有得ない方向に曲げた、さっきの生物が良く見えた。 限界だったのだ。色々と。 紫がその場で気絶したのも、無理はないことだった。 「あ、士郎さん。おかえりなさい」 道の真ん中で気絶した少年を担いだ里山士郎は、自宅前で向かいの住人に声を掛けられた。 「ところで、知ってた? 誘拐は犯罪だよ?」 攫ってない。おっとりした調子で失礼なことを言ってのけるのを憮然と睨むが、相手は気にした様子もなく、士郎の背中側に回り込んで顔を覗き込もうとした。 「・・・」 「あれ、伊藤?」 意識のない人間を勝手に弄るのはまずいだろうと注意するより先に、いぶかしげな声があがる。 「知り合いか?」 「クラスメート・・・かな?」 「?」 「一週間前は確かにクラスメートだったけど」 首を傾げながら、相手は言う。 「失踪したから、今もそうなのかは不明」 焦げついたような臭いで目が覚めると見知らぬ部屋で、畳の上に敷かれた布団で横になっていた。着ているのは汚れた服ではなく、肌触りの良い木綿の浴衣だ。 古い家なのだろう。天井が高く、少し顔を巡らせると年季の入った柱や梁が見えた。もう太陽が昇っている時間らしく、これまた時代がかった雨戸の隙間から光がさしていた。 「起きたのか」 「!!」 聞き覚えのある声が足下の方から聞こえて、跳ね起きる。が、頭の中で脳みそがガラガラ揺らされているような感覚に襲われて、もう一度布団に沈むはめになった。 「無理をするな。過労と寝不足が重なった所を風邪にやられている・・・当分起き上がれないだろう」 そう言って覗き込んできた男は、サイズ的に見て気絶する直前にあった男と同一人物で間違いないらしい。年は見たところ二十代後半で、光の中で見るとなかなかの男前だ。太い眉にくっきりした目元の、典型的日本男児である。 「あ、どーも」 「・・・取り乱さないな」 「や、取り乱す体力がないだけ」 いっそ悪い夢で片付けたいのだが、それも面倒なくらい消耗している。 「そうか」 それだけ言って男が枕元に置いたのは、異臭の原因と思しき湯飲み茶碗だった。中にはどろりとした濃い茶色の液体が溜まっており、焦げ付くような臭いの湯気が立ち上っている。 「・・・いらない」 「飲め。良薬は口に苦しだ」 「最近は正露丸にも糖衣がかかってるのに・・・」 「そんな邪道は認めん」 何がどう邪道なのか知らないが、正直起き上がって茶碗を持ち上げるのも億劫だった。昨日の夜、なんとか歩けたのが嘘のようだ。 そんな紫を見てどう思ったのか、男は茶碗を持ち上げて、ついでのようにもう片方の手で紫を引き起こした。 どうする気なのかとぼんやり見ていると、男は茶碗を傾けて中身を含むなり、口を寄せてきた。唖然とする間に唇がこじ開けられ、臭いから大体想像がつくような味の液体が流れ込んでくる。 不思議とむせるようなこともなくそれを飲み下すと、男は紫の上体をもう一度布団に戻した。 「取り乱さないのか」 もう一度、似たようなことを言われる。 「・・・俺、どっちかって言うとゲイだから」 いや、ゲイならば取り乱さないかと言えば、そうでもない気がするが、何しろ今は体力がない。 また、似たような調子で「そうか」と聞こえた気がしたのだが、紫はそのまま眠ってしまったらしい。 気が付くと夕方で、枕もとの人間は二人に増えていた。ぼんやりする頭を何とか持ち上げて、見回してみる。 紫から見て左側に胡座をかいているのが先ほどの男で、右側には紫の同年代と思しき少年が背筋を伸ばして正座している。その姿勢と艶のある黒髪、その下にある色白の細面や綺麗なアーモンド形の目といったパーツが、何かを連想させた。少し考えて、納得する。 「日本人形・・・」 「何が言いたいのか不明なんだけど。そういう伊藤はぬいぐるみに似てると思うな」 ほら、ちびっちゃくてふかふかしたかんじが。と、日本人形が口を利いた。 もとい、少年が返事をした。 「は・・・? なんで名前・・・」 「オレだよ、オレ」 どこぞの詐欺師のようなことを言いつつ、自分を指差す少年。それでも首を傾げる紫に肩を竦めると、どこからともなく眼鏡を取り出して装着する。 紫の頭の中にあるデータの内、一つが該当した。 「委員長?」 「正解ー!」 十日ほど前から行っていない高校のクラスメートが、わざとらしい拍手を響かせながら微笑んだ。 委員長こと上田環とは、それほど親しくしていたわけではない。実は二年連続でクラスメートの仲でもあるが、だからといって友達ではない。 こんな場所でこんな風に再会して、何を話せばよいのやら。 「ああ、どうせ言っていないだろうから俺が言うけど、ここは『里山薬局』っていう、漢方薬の店。この人は店主の一人で整体・鍼灸担当の里山士郎さん。もう一人薬の担当がいて、伊藤が飲まされたのはそっちの作品だよ。他に質問は?」 紫がああでもないこうでもないと悩むのを放置して、環はマイペースに告げる。 「・・・学校か、家に連絡、したか?」 「してない。しようか?」 首を横に振る。何故、と訊かれることもなく、環はただ了解と応えた。 「それじゃあ、後は士郎さんに任せるね。父さんの手伝いするって約束してるし」 士郎に軽く頭を下げて、立ち上がる。 「あ、体が本調子になるまで外に出たらだめだよ? 元気になっても、ここのルールが分るまでは誰かと一緒に行動した方がいい」 その言い方が、まるで近所に行くのも注意が必要だと言っているようで、紫は面食らった。それを見た環と士郎は、うんうんと頷きあっている。 「知らずに入ってきたのか・・・何故だ」 「う〜ん。父さんも頭抱えてたよ。まさか、用もない人間が踏み込んでくるなんて」 意味不明の言葉を交わした二人が、揃って紫に向き直る。 「とりあえず、これだけは言っておく」 「意味不明だろうけど、聞くだけ聞いておいて」 「「ようこそ、『真の』魔法街へ」」 この時は、まだ意味が理解できなかった。 |
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