学生は混乱する>>   

 さて、『稀に見る天然不幸体質にして流され体質』『流されすぎて影が薄くなっているのではないか』とご近所でも大評判の伊藤紫の身に事件が起きたのは、とある夕方のことだった。
 何がまずかったのかと言えば、いつも一緒にいる環と賢太郎が一足先に下校したのがまずかったのだろう。
 こんな日に限って学校に忘れ物をするあたり、伊藤紫と言う人物はまったくお約束を外さないキャラクターだった。

「若君、買い物に行きたいのでござる。店を教えて下され」
「何を買うの?」
 犬族は大抵、集団への帰属意識が強く、上位の者を尊重する傾向にある。環を『若君』と呼ぶのは流石にどうかと思うのだが、(その両親に至っては、揃って『御館様』だ)賢太郎にとってはこれが一番話しやすいのだから仕方がない。
 ・・・一部学友の間で『上田環ヤクザの息子説』が流れたりもしたが、まあ小さなことである。
「『けいき』でござる。祝い事には必要だと春麻殿が」
「景気・・・ああ、『ケーキ』ね」
「紺が新しい技を覚えたのでござる」
 学校に通っていない紺は、熊さんの食堂で手伝いをしたり、獣人や変化・幻術系の技能持ちの住人たちに修行をつけてもらったりしている。
 修行というより遊んでもらっているが正しいのかもしれないが、確かに成長はしているし、今回のように新しい技を覚えたりもする。
 魔法街にも菓子屋はあるが、折角なので外にある洋菓子店に行くことにした。
「・・・けえきとは、高価なものでござるな」
 魔法街では物々交換や労働奉仕での支払いが普通なので、賢太郎はあまり現金を持っていない。簡単な手伝いで小遣いは貰っているのだが、学用品や学生に必要な物を買う程度の金額である。
 賢太郎が財布の中身とショーウィンドウの中を見比べて悩んでいるので、環も半分出資してやった。

 散々悩んだ末にお誕生日仕様のホールケーキを1つ買って店を出た時、環の携帯が鳴る。
 表示された名前は『めぐちゃん』。隣のクラスの田坂メグミのことだ。
「もしもし?」
『い、委員長!?』
 携帯越しに聞こえたメグミの声は、何やら裏返っていた。
「めぐちゃん?」
『委員長! 委員長、いいんちょう〜!!』
『・・・落ち着いて』
 環は基本的に、物事に動じない性格をしている。
 物心ついたときから周囲は不思議が一杯で、あまつさえその筆頭が両親だったりしたら、そうなるのも当然だが。
『紫くんが、さ・・・攫われたの!』
「・・・は?」
 こういった場合なら、多少動揺しても許されるだろう。
 人間の約16倍と言われる聴力で通話内容を聞いた賢太郎が硬直しているのに比べれば、返事をしただけ上等だ。

『あのね、男の人が・・・外国の・・・西洋の人っぽくて、何だかすごい美形で・・・じゃなくって・・・!』
 状況を聞いてみると彼女は偶然紫と会い、途中まで一緒に行くことにしたのだそうだ。
 紫(と環)をモデルにした漫画が先日めでたく文芸部の部誌に掲載されたのでそのお礼も兼ねて何か・・・予算700円以内で・・・ご馳走しようかと話をしていた時だった。 学生が良く使う道に、車の通らない裏道がある。裏といっても住宅街の中なので登下校の時間にもよく人が通るのだが、そのときに限って他の通行人がいなかった。
 それどころか、決して短くない道はしんと静まり返り、2人以外の人間はいないかのようだった。
 そして状況のおかしさに首を傾げた時、2人の前には見知らぬ男が立っていたのである。
 年齢は壮年の少し手前くらいだろうか。シルクハットを被って、手にはステッキを持っており、黒いコートの下に真紅のベストを着ていた。
 ・・・日本人がするには厳しい格好だが、彫りの深い顔立ちといささか風変わりな肌の色(奇妙なほど白かった)を持つ彼はどう見ても日本人ではなく、本人もその服装に何の違和感も感じていないようだった。
 男は不思議な色の瞳で紫を見つめ、確信に満ちた口調でこう言った。
「上田環くんだね?」

「・・・・・・・・・」
『そしたら・・・ゆ、紫くん、いきなり倒れて・・・!』
 緊迫しすぎた状況で、とてもじゃないが『人違いです』とは言えなかったそうだ。
 めぐみは悲鳴を上げようとしたが、声は出なかった。それどころか全身が固まったように動かなくなって、紫を抱えた男が去っていくのを見ているしかなかった。
『警察に言ったら駄目だって・・・伝えろって・・・』
「誰に?」
『わ・・・からないの。―――って誰!?』
 外国語(第一・英語、第二・フランス語)が得意なメグミの発音は、とても正確だ。
 独特の響きを持つその名前は、確かに聞き覚えのあるものだった。
「ユカちゃん、俺と間違えられて連れて行かれたんだね?」
『そう、みたいなの・・・』
「その人が、―――って言ってたんだよね?」
『うん・・・あ、たし・・・怖くて、紫くん助けらんなくって・・・足、動かなくて、声も出なくて』
「落ち着いて、めぐちゃん。多分・・・」
「?」
 多分、恐怖のせいではない。実際に動けなかったのだろう。
 現場から他の人間を追い払い、紫を倒れさせたのと同じ手段で、押さえ込まれていたのだ。
 環は、そういうことができそうな手合いに心あたりがあった。
 人間を無理やり操ったり、時代も季節感も場所柄も無視した格好で堂々と住宅街を歩いたりできる種族、それは多分・・・
「いや、多分、―――さんが・・・俺の知り合いが、どうにかしてくれるから」

 宥めすかして通話を切ると、賢太郎が真青になっていた。
「わ、若君・・・―――とは何者でござるか」
「・・・母さんの本名だよ」
 環はいつものように何でもない調子で教えてやろうとしたが、うまくできたかどうかは自信がなかった。